えたものだ。」
 私は九十の老爺さんが以下だけを使って、パスしなかった事はきかさなかった。彼は恐悦《きょうえつ》の至りだと言った。
 明治四十三年の九月に佃島に津波《つなみ》が来た。京橋の築地|河岸《がし》一体にまでその水は押上げたほどで、洲崎《すざき》や月島は被害が甚《ひど》かった。庭の眺めになるほどの距離にある相生橋から越中島の商船学校前には、避難して来ていた和船《おおぶね》が幾艘《いくそう》も道路に座ってしまったほどで、帝都には珍らしい津波だった。私《あたし》の家《うち》は老人たちの丹精の小松が成長して、しっかり根をかためていたせいか防波堤《どて》は崩れなかった。海水《みず》が高いと案じ油断はしていなかったが、うとうと眠った夜中にチョロチョロと耳近く水の音をきいた。戸外《そと》の暴風雨《あらし》にはまぎれぬ音なのですぐに目が覚めた。潮入りの池は島中でたったひとつだから、これは池があふれたな、近所に気の毒だとその瞬間に思ったが、よく目を覚すとそれどころではなかった。何もかもが浮出して器物が活動している。ボンヤリしているのは人間だけだった。
 電燈は断《たた》れた。幸《さいわい》に満月の夜ごろだから、月はなくても空は真暗というほどではない。
 離家から、二階にいた中学生の弟が裸で、胸まで水に浸って、探険用の燈火《あかり》をつけてやってきた。二匹の犬がザブザブ泳いで後について来た。
「老爺さんをともかく二階へあげておくれ。」
というと弟が答えた。
「とても駄目だよ、おやっちゃんでも言わなければ動きゃしない。なんてったって、戸棚の前に座って、硫黄をいじくってる。」
「でも水で大変だろう。」
「うん、床が高いけれど、座ってる胸のところへ来ている。」
「硫黄をみんな二階へあげてあげるといっておくれ。」
「こっちへ連れて来たいが、老人《としより》だから流されるだろう、とても甚《ひど》いや、僕でもあぶない。」
 私は突嗟《とっさ》に富士登山の杖《つえ》が浮いてるのをとって、窓の外の弟にわたした。
 水が引いたあと、ヘドロを掻《か》くのと、濡《ぬ》れた衣物《きもの》や書籍が洗いきれずに腐って、夜になると川へ流して捨てた。壁は上までシケが浸上《しみあが》っていった。額などは水につかりもしないのにパクパクして、何もかもが病気になった状態だった。私は二人の老人の健康を気づかった。
 離れの二階が一番乾いていたのと通風がよいので、みんなが其処《そこ》に集って暮すと、二人の老人はまた互に強がりはじめた。しかし、二人ともどこか悪くしている様子が見えた。私は七十代の父の方に説いた。
「どうも老爺さんが悪いらしいが、医者をよぶというとかからないから、お父さんが風邪をひいたことにして――」
「よし。」
 老父は至極簡単で、もの事を逆にいえば唯々諾々《いいだくだく》なのである。
「なにしろ湯川老人は年齢《とし》だからな、医者に見せなければいけない。」
 そして、その湯川老人はいった。
「ようごす、お父さんは頑固だからどうも強がっていけない。僕が医者にかかるというと、自分のためだとは知らずに、湯川もまいったなと言われるだろう。だが、なんぞ知らん、長谷川|氏《うじ》のために呼んだ医者だ。」
 カラカラと笑ってつけたした。
「幸と硫黄はなんともなかった。書物《かきもの》をすこしやられたが、それはまた書けば書けるから、どうか御安心ください。」
 だが、死期はせまっていたのだった。保《も》てるだけもった体は、ポクリと倒れるまで余命を保っていただけだつた。医者は言った。何ともないが死ぬだろうと、しかも十日はどうかと――
 葬式にも間に合わないだろうがと、台湾から出て来た例の虎と蛇薬の婿は、蚊にさされながらブツブツ言った。
「こんな事なら、わしゃ言うとかにゃならぬことや、仕ておかにゃならんことが沢山沢山あったに――おじいさん、どこまで他人《ひと》を困らせる人か、わしゃもう、若いころからこの人のためには、ほん、サンザンな目に逢うとるわ。」
 医者も驚いた。こんな事はないがと――そのくせ死期は来ているのだが。
「おじいさん癌《がん》があったのだね、驚いたなあ、何時《いつ》ころからなんだ。」
 医者にもわからないものが、誰にも分りようはなかった。強い、しどい、刺戟《しげき》のある臭気を、香を焚《た》き、鼻の穴へ香水をつけた綿を挿《さし》て私が世話をすると、その時だけ意識が分明《はっきり》して、他の者には近よらせなかった。そしてお世辞がよかった。
 何に拘《こだ》わっているのか――と私は考えた。
「おじいさん、お酒がほしい?」
 ニコリとしたような表情だ、私は薬指のさきに、薄めた清酒をつけて嘗《な》めさせるとおちょぼ口をした。
「ほう、観音様だな。」
 傍から首を出した妹を見てお
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