木魚の顔
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鼠小僧《ねずみこぞう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三光|稲荷《いなり》
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鼠小僧《ねずみこぞう》の住んでいた、三光新道のクダリに、三光|稲荷《いなり》のあったことを書きおとした。三光稲荷は失走人の足止の願がけと、鼠をとる猫の行衛《ゆくえ》不明の訴《うったえ》をきく不思議な商業《あきない》のお稲荷さんで、猫の絵馬が沢山かかっていた。霊験《れいげん》いやちこであったと見え、たま、五郎、白、ゆき、なぞの年月や、失走時や、猫姿を白紙に書いて張りつけてあった。その近くに鼠小僧の隠れ家があったわけになる。
油町あたりの呉服商の細君であった祖母が、鼠小僧の人柄なぞをどうして知っていたのかと思ったら、そのころ祖母夫婦は、楽屋新道《がくやじんみち》――葺屋《ふきや》町、堺町、などの芝居に近い――の附近に住《すま》っていた。場処がらで気らくに暮していたと見え、近所の岡《おか》っ引《ぴき》の細君と仲をよくしていたという。自然そんなことから鼠小僧の引廻しも見たのであろう。
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七ツのアンポンタンに、九ツのアンポンタンに、十一、十二のアンポンタンにおぼろげながら近くの町の人の生活ぶりや身近な人たちのそれがぼんやりとうつってきて、言様《いいよう》のないさびしさと、期望しても期望しても満《みた》されない佗《わび》しさがあった。譬《たと》えて見れば、お正月になったら賑《にぎや》かだろう、――賑かだろうという漠然とした思いのなかに、子供の空想と希望と理想が充満している。それが元旦《がんたん》の夕方ちかくなると、ああ、もう日が暮れるのにと、どうしていいかわからない物足りなさが憂鬱《ゆううつ》をもってくる。それにも似た――事はまるで違うが、日々《ひび》にぶつかる余儀ないさびしさだった。
ある日、あたしは母の父の顔を穴のあくほど凝《じっ》と見た。この老爺《おじい》さんは寺院《おてら》で見る大木魚《おおもくぎょ》のような顔をしていた。木魚は小さいのは可愛らしいものであるが、大きなのが茵《ふとん》を敷いて座っていると、かなりガクガクとした平たい四角である。老爺《おじい》さんの顔も大きな四角なお出額《でこ》で顎《あご》も張っている。そのくせ鼻は丸く安座《あぐら》をかいていて小さい目は好人物というより、滑稽味《こっけいみ》のある剥身《むきみ》に似た、これもけんそんな眼だ。白い髭《ひげ》が鼻の下にガサガサと生《は》えて、十二月の野原の薄《すすき》のような頭髪が、デコボコな禿《はげ》た頭にヒョロヒョロしている。悪口すれば、侏儒《くもすけ》ともいえる、ずんぐりと低い醜い人だ。
その前にも逢《あ》ったかも知れないが、アンポンタンが意識した初対面の印象だった。彼の身辺《まわり》は石炭酸の香《かおり》がプンプンした。
「ヒョウソになる性《たち》だから、これは働きながらでは無理だ。」
そういって女中を――台所働きの女中をおさんどんと呼ぶころだった。そのおさんが昨日《きのう》足の裏を咎《とが》めたのを気にしないでいたらば、熱が出て腫《は》れあがったのを診察して、養生にかえすようにと言った。
老爺《おじい》さんが洋科のお医者が出来るのも初耳だった。あたしの家は頑固で、漢法医にばかりかかって練薬《ねりやく》だの、振りだしだのを飲ませ、外|傷《きず》には貝殻へ入れた膏薬《こうやく》をつけさせていたから――洋科の医者といえばハイカラなものと思っていたあたしは、石炭酸の匂いに厳粛になり、この汚ない老爺さんに呆然《ぼうぜん》としていた。
そのまた老爺さんの言語《ことば》がふるっている。
「長谷川|氏《うじ》は元気かな。」
長谷川|氏《うじ》――あたしの父で、彼の婿である。常磐津《ときわず》の師匠の格子戸へ犬の糞《ふん》をぬった不良若衆で、当時でのモダン代言人である。――あたしは、彼のデコボコ頭の凹《ひく》みにたまった埃《ごみ》をながめた。
以下、その老爺さんの生活の断片で、アンポンタンの眼に映《うつ》ったヒルムの屑《くず》である。
すべてのことに転々とする人を見るとさびしい焦燥を他人《ひと》ごとながら感じて、石が汗をかくようなにじみだす涙がこみあげてくる時がある。生れながらの性《さが》もあろうが、ピッタリと、ものに廻りあわぬ悲しい人たちなのである。蚕でさえ心にあうところのあるまで、繭をかける場処を選んで、与えられた木の枝の、果《はし》からはしまで歩き廻る――それは何やら満されない本能の求めなのではなかろうか――老爺さん湯川氏も、自分の本質を空しくして、ただ長く生きた九十年の生涯である。
老爺さんは、湯川というのも自分の本姓《ほんせい》ではない。仙台屋敷に生れたから仙台様の藩士だろう。お留守居《るすい》役だともきいたが、廻米《かいまい》の事に明るかった。父親もその役だったと見える訳があるから、江戸で生れた東北系の人である。
廻米とは仙台領の米を船で廻してくることで、その領地米を江戸|邸《やしき》で受取る役人なのだ。江戸詰の藩士の禄高通り全部米で与えたものなのか。あるいは金に代えて渡したものなのか。よくきいておかなかった。当時の蔵前の札差《ふださし》や、浜方などとの取引関係から、数算にたけ、世估《せこ》に長じていなければならない、いわゆる世渡り上手の人物でなければならないのに、湯川氏はみいりのよい父祖の職をきらって御直参《おじきさん》の株をかった。直参といえばていさいはよいが、木《こ》っ葉《ぱ》旗本、貧乏|御家人《ごけにん》の、その御家人の株を買って、湯川金左衛門|邦純《くにすみ》となったのである。湯川という姓は無論買った家の姓で、金左衛門も通り名である。しかも、養父――名ばかりの、御家人株の売手が拾歳《とお》下なので、嘘《うそ》の年齢が出来上ったために、娘たちを妹にして幕府の人別帳《にんべつちょう》に記入して貰い、とにかく御直参にはなった。が、すぐに幕府は瓦解《がかい》した。株を売った真の徳川御家人の一人は、先見の明《めい》をほこって、小金貸《こがねかし》でもはじめたであろうが、みじめなのは、新《ニュー》湯川金左衛門邦純であった。
尤《もっと》も老爺《おじい》さんの妻の父親が、上野|輪王寺《りんのうじ》の宮《みや》に何か教えていた××安芸守《あきのかみ》という旗本で、法親王が白河へお落ちになってから建白書のようなものを書いて死んだ人であり、身寄りにも上野の彰義隊《しょうぎたい》で死んだ若ものもあったから、算盤《そろばん》をはじく武士より直参武士になれと進められたのかも知れない。とはいえ新御直参一家は、五月十六日朝の官軍上野攻めで狼狽《あわ》てた。いよいよ敗軍ときくと逃出す騒ぎで、什器《じゅうき》を池のなかに投込んだり――上野山下の商家では店の穴蔵へ入れたという――井戸へ入れておいたりして逃出した。老爺さんの二女――総領娘はある大名|邸《やしき》に御殿奉公をしていた――私の母は九歳だったが、男髷《おとこまげ》にしていたので小刀を差して連れられて逃げた。吉原の土手下で夜を明した時、どこのものかが名物の土手の金《きん》つばをくれたが、その大きさとうまさを何時までも忘れなかったと言った。そうしてこの新御直参一家はみずから没落し、徳川十六代|亀之助《かめのすけ》様のお供、静岡|蟄居《ちっきょ》というはめにおちた。
品川から出た二艘《にそう》の幕府の汽船に押し積まれて静岡へまでもつれてゆかれる幾百戸かの家族、それは徳川にしても厄介ものだったに違いない、ついてゆかねばならぬというものの中には、こうした一家もあったのだ。静岡へいったからとて何の当《あて》があるのではなし、百姓泣かせがいちどきに流れこんだのだった。命と体だけを積んでもらった故、勿論《もちろん》たいしたものは持ってゆきはしない、家財はみんな捨てていったのだ――こんな時だとて、上のものの方はどうにかなったであろうが、耕す土地とてそうあろうわけはなし、無禄無扶持《むろくむふち》になった小殿様たちは、三百年の太平|逸楽《いつらく》に奢《おご》って、細身《ほそみ》の刀も重いといった連中である。忽《たちま》ちにして畑の芋盗人《いもどろぼう》となり、奥方は賃仕事をして糊口《ここう》をしのいだ。
湯川氏の家では不用になった袴《はかま》が商品に化けた。仙台平《せんだいひら》や博多《はかた》の財袋がつくられて売られた。お百姓がお客様なのであるが、売手に怖《おそ》れて近寄らないのと、売る方でも気まりが悪いので、七夕《たなばた》の星まつりのように篠《ささ》の枝へ幾個《いくつ》もくくりつけて、百姓の通る道ばたに出しておいて銭《ぜに》に代えた。
幕府の瓦解は御直参と威張った旗本、御家人の墜落ばかりでなく、大名も廃藩置県《はいはんちけん》となったから、湯川の姉娘も帰ってきた。ともかく、わびしさのつづく中に振り袖姿の年頃の娘を見る事は親たちは嬉しかった。この娘だけが失わずにいた衣装道具を、失わさずにおかせたいと思った。とはいえ用捨《ようしゃ》なく生活《ここう》の代《しろ》は詰るばかりである。それを助けるためにお供の連中は遠州《えんしゅう》御前崎《おまえざき》に塩田《えんでん》をつくれとなった。
あたしの母は十二になって、屈強《くっきょう》な体力をもっていた。姉と妹二人はどうにもならなかった。彼女は小船を漕《こ》いだ。彼女が今でも一番恋しい景色は遠州御前崎の今切《いまぎ》れの渡しのところと味方が原だという。彼女は早抹《あさまだき》、父親をはげまして自ら小船を漕いで塩浜へとゆく。十二の彼女の海水《しお》の撒《ま》きぶりには及ぶものがなかったほど、終日を働きくらした。
と姉娘に縁談が起った。親たちは江戸がえりの娘の美しさゆえに――と思った善人である、先方が旗本で、旗本が口をきいてくれたのだからといった具合で悦《よろこ》んだ。仲人《なこうど》が来た。夏のことで白扇《はくせん》をサラリと開くと懐《ふところ》から贈物の目録《もくろく》書と、水引《みずひき》をかけた封金を出して乗せたが、
「芽出度《めでたく》御受納くださるように。」
と丁重に述べておいて、下げた頭をあげると、動作のゆっくりした湯川氏が手をださぬうちに扇の要《かなめ》をくるりと向けかえて、
「御同様に、此方様《こなたさま》からも御贈《おおく》りでござろうから、諸事節約、緊縮《きんしゅく》して――」
とかなんとか浜口内閣のようなことを言って、もってきた結納金《ゆいのうきん》をまた懐中に入れてしまった。それでも好人物な、他人《ひと》を疑うことをしない夫婦は、悦びだけを受入れ、悦びの意だけを空っぽで渡した。
――あたしの母は、今でも言う、姉さんが味方が原の秋草の中を、馬に乗って美しい振袖を着ていった。これはお前にやるよといったものまでみんなもっていってしまった。お嫁にゆくとなったらケチになって、何もかも持っていった。姉さんが御奉公に出たころは、家も富貴だったので、市ヶ谷のあまざけや(有名な呉服店)で、好《この》みで染めさせたものばかりだったが、私は子供心にもこの嫁入りの仲人が変だと思った。昔のお金は小判で重いのに、包んできた水引のかかった奉書は薄っぺらで軽かった。よっぽどたって嫁入りさきにたずねていったら、連合《つれあ》いも、姑も、姉も、みんながあたしの姉さんの着物を着ていた。
無力の巧《たく》んだ一種の略奪であった。さすがの御直参湯川氏も考えさせられた。これではならないと働きものの二女を伴《つ》れて江戸へ出た。江戸には住みすてた邸《やしき》もある。池の中には何かしらが残っていよう。深川佐賀町の廻船問屋には自分の妹が片附いている。商人には障《さわ》りがなかったということが彼を心強くさせもした。
紅葉《もみじ》を踏んで箱根
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