の山も越した。以前の住家《すみか》へゆくと玄関の両側にたてた提灯の定紋《じょうもん》は古びきって以前のままだが、上方の藩の侍が住んでいて、取次の男が眼をむいて睨《にら》んだ。家財なぞしらんと――だが深川の商取引の活溌《かっぱつ》さは昔どころではなく、溌溂《はつらつ》として大きな機運が動いていた。義弟の佐賀町の廻船問屋石川佐兵衛の店では、仙台藩時代の彼の緻密《ちみつ》な数算ぶりを知っていたので手を開いてむかえた。働きものの小娘は気むずかしい伯母《おば》の小間使《こまづか》いになった。
 だが、人間をあやつる傀儡師《かいらいし》はなんといういたずらをしようとするのか、この湯川氏が、働きものの二女を芸妓に売ろうと思ったり、また、この小娘が未来に教育界の先駈者《せんくしゃ》となろうとしたのをさせなかったり――彼女に手習いを教えた女学者が、この子を養って自分の意志をつらぬかせたいと懇望したが許さなかったのだった。
 石川佐兵衛は暗愚でも、時流が廻米、廻船問屋というものを恵んだ。そこに湯川氏の数算と長年の蘊蓄《うんちく》が役に立って石川の家運はあがった。その頃の湯川氏の知己の名は自毛村《じけむら》であるとか、三野村《みのむら》だとか錚々《そうそう》たる大実業家となった人たちである。石川屋は三井物産前身の如きものだともきいたが、やがて石川屋は没落し、それよりずっと前に湯川氏はまた動きだした。あたしが知った老爺《おじい》さん湯川氏は、それからずっと後の彼だったのだ。

 あたしの家《うち》で――彼のいう長谷川|氏《うじ》の宅で、彼のために小|晩餐会《ばんさんかい》が催されたことがある。彼の老妻や、他の娘や、娘たちの婿なども寄りあつまったが、客座敷ではなく常の食事をする室で、各自《めいめい》膳《ぜん》で車座になってお酒も出た。
「いや、どうも、かくお手厚い御饗応《ごきょうおう》にあっては恐縮のいたりで――」
 木魚の顔が赤くなって、しどく豊《ゆたか》に、隠居《いんきょ》じみた笑いを浮べて、目をショボショボさせながら繰返していっていた。
「老爺さん、こんどこそはひとつモノにして下さい、なにしろ君にいためられた皆《みんな》が浮かばないよ。こっちの家《うち》だって、なんだかんだって大変だあね。」
 そういったのは姉娘の婿――遠州では仲人にたった旗本だった。
「それは大丈夫だ、こんどはウンと皆をよろこばせる。」
 もうその頃は七十位だったのであろうが、遠くへ単独《ひとり》でゆくような様子だった。
「味噌も米も困らないように送ってあるから。」
と彼の老妻はつぶやくようにいった。そしてみんなが何処《どこ》へか送っていった。
「牛肉の佃煮《つくだに》でも送ってやったら――」
 父がその後、母にむかっていっていた。
「だが、今度もあてにはならないぞ。」
 そういうふうに彼は二年も三年も漂然《ひょうぜん》といなくなって、現れるとムッツリとした風貌《ふうぼう》を示し、やがてまた人々に送られて、至極満足そうなニコニコ顔で出かけた。
 そうした祖父の存在は子供たちからは忘られがちで、外祖母は末の娘と二人で住んでいるものだとばかり思った。上野下の青石横町に住んでいたころも、根岸のお行《ぎょう》の松のすぐきわに、音無川の前にいたころもそうだった。老嬢《おうるどみす》になった娘のミシン台とたんすが一棹《ひとさお》あるきりのわびしい暮しかただった。どうしてこんなにガランとしているのかと思ったが、それはみんな湯川氏が硫黄《いおう》発見に入れこんでしまうのだった。たまたまとまりにいった時、祖父が帰ってきたりすると、妙な風躰《ふうてい》をした男がぞろぞろくるので嫌《いや》でならなかったが、家に帰って父に訊《き》くと、父はまたかというようで、
「老爺《じい》さんまた賺《だま》されなければいいが。」
と呟《つぶ》やいた。彼の周囲のものも、僅少《きんしょう》な家禄《かろく》放還金をみんな老爺さんの硫黄熱のために失われてしまっているのだということを、あたしたちも段々に悟《さと》った。

 なにが湯川老人をそんなに硫黄狂人にさせたか知るものがない。ともかく四十年からの彼の事業である。重に北の方を歩いていたが小笠原島あたりにもなんのためか長くいた。山のめききは凄《すご》いほど当ったが、訓練にも工夫をつんだが、悲しいかな老爺さんの発明は、丁度お直参の株をかったのと同じようにいつも世界の年代からおくれている。強情で頑固なところが最進智識をすこしも求めようとしないで、自己流の工夫でコツコツやるのだった。そのうちに年月は十年も十五年も飛び去る。老爺さんの頭はだんだん凸凹が多く深くなって、黴《かび》がはえたようにそのくぼみに埃《ほこり》がたまる――
 ある時、ヒョックリと現われた湯川氏は、赤い毛布《ケット》をマントのように着て手拭《てぬぐい》で咽喉《のど》のところに結びつけていた。山籠《やまごも》りから急に自分の家にもゆかず長谷川|氏《うじ》をたずねて来たのである。いそがしい父の小閑《ひま》を見ては膝《ひざ》をすりあわせるようにして座りこんでいた。いつも鉱山《やま》のことになると訥弁《とつべん》が能弁《のうべん》になる――というより、対手《あいて》がどんなに困ろうが話をひっこませないのだ。父は他人《ひと》の紛糾《ふんきゅう》事件で家族に飯をたべさせているのだから、煩《わずら》わしいことをきくので頭が一ぱいであったろうに、例の大木魚の顔がムズと前に出たらダニのように離れない。私は子供ながらハラハラした。父の前からはなるたけ離れているように家族は心懸けている。父も子供にも小言もいわない位に離れているのに――で、私は好奇だからでもなんでもなく、なるだけ大木魚の老爺さんの顔を自分の前にもってくるようにした。一体アンポンタンは家のものから遠ざかってポカンとしてばかりいたのに、木魚の老爺さんとだけ話をするのでよっぽど妙だったかもしれない。
「おじいさんに恐山《おそれざん》へでも連れてってもらうがいい。熊とおじいさんと三人で住むんだ。」
 そんな事を大人はいって笑った。
 アンポンタンと湯川氏はポツンポツンと問答をはじめる。
「おじいさんの頭はどうしてこうデコボコになったの?」
「小笠原島で亀《かめ》の子の卵をあんまりたべたので、勢《せい》がついてデコボコになってしまった。」
「小笠原島の亀の子って、大きいの?」
 アンポンタンは、背中に題目を彫られた大きな亀がつかまって、も一度海にはなされるとき、お酒をのませたのを覚えていて、その二尺五寸もある甲を思いうかべていた。
「そうだよ、大きな亀の子が揃って出て来て、浜の砂を掘って、ズラリと並べて卵を生んでゆくのだ。人間はそれを盗むのだからいけないな。」
「おじいさんも盗んだの?」
「そうだよ、盗んで幾個《いくつ》も食べた。」
「なんのために食べたの?」
「長生《ながいき》をするためにさ。」
「何故《なぜ》?」
「硫黄を――質《たち》のいい硫黄を製造して――硫黄の出る山はウンと見てあるのだけれど――お前のお父さんが承知さえしてくれれば……」
 おじいさんは刀豆《なたまめ》煙管《キセル》をジュッと吸った。
「恐山《おそれざん》に熊が出るの?」
「出てくるがなんともしない。」
「どんな風にしているの?」
「紙帳《しちょう》とていってな、紙で張った蚊帳《かや》みたいなものを釣って寝るのだ。寒さよけにもなるしな、火を焚《た》いておくと、熊はくるがおとなしいよ。」
 私は熊の子と友達になってもいいなという気持ちになる。紙帳のことは『浅間《あさま》が嶽《だけ》』という、くさ双紙《ぞうし》でおなじみになっている、星影土右衛門という月代《さかゆき》のたった凄《すご》い男が、六部の姿で、仕込み杖《づえ》をぬきかけている姿をおもいだし、大きな木魚面の、デコボコ頭の、チンチクリンの老人を凝《じっ》と見詰《みつ》めた。
「おじいさんは硫黄山へ何もかもつぎこんでしまったのだって?」
「出来上ればみんなを悦《よろこ》ばせるのだが――」
 おじいさんは、版下を書くように、細かく綺麗《きれい》な字を帳面一ぱいに書きつけたのを出した。分らない私にも説明しようとした。四寸ばかりな算盤《そろばん》をだして幾度《いくたび》もはじいた。

 老爺さんの根気に負けて、父が福島県下へ連れてゆかれたのは、磐梯山《ばんだいさん》だか吾妻山《あずまさん》だかが破裂したすぐあとだった。父はヘトヘトになって帰って来て座らないうちにいった。
「出来るだけのことならしてやろうよ、あの年でたいした気根《きこん》だ。」
 あの老人が山へはいると仙人のように身軽になって、岩の上なんぞはピョンピョンと飛んでしまい、険《けわ》しい個所ではスーッと消てしまったように見えなくなる。気がつくと遥《はる》か向うでコツコツ何かやっている。さながら、人跡未踏《じんせきみとう》の山奥が、生れながらの住家のようで、七十を越した人などとはとても思われない。山の案内人などの話でも老爺さんが一足|踏《ふ》み入れて、あるといった山に硫黄のなかったためしがなく、歩いていると、ふと向うの山の格好を見て言いあてる。土地の者たちも神様のように言っているというのだった。
「だが、宿は温泉だといっておいて赤湯だの、ぬる湯だのと、変な板かこいの小屋へ連れていって、魚の御馳走《ごちそう》だといって、どじょうを生《なま》のまま味噌汁《おつけ》の椀《わん》へ入れられたには――」
とすっかり閉口していた。でも、どうやらこうやら父から出資させる事になって老爺さんは欣々《きんきん》と勇んだ。情にもろくって、金に無頓着《むとんじゃく》な父は、細かい計算をよく噛《か》まなかった。損徳よりもただ幾分の出資を捨る気でしたのだったろう。
 老爺さんが得意になると、今まで冷笑していた親類《みより》のものが手伝い志願を申出た。自分たちも損をしただけ取りかえそうという、御直参旗本の当主や子や孫である。
 梅干《うめぼし》幾樽、沢庵《たくあん》幾樽、寝具類幾|行李《こり》――種々な荷物が送られた。御直参氏たちは三河島の菜漬《なづけ》がなければ困るという連中であるから、行くとすぐに一人ずつ一人ずつ落伍《らくご》して帰って来てしまった。そして言うことはおなじだった。
「何しろ、一鍬《ひとくわ》いれるとプンと強く硫黄が匂うのだから、胸が苦しくって飯も食えない。」
 老爺さんの硫黄はよく出来た。しかし近間の山林は官林なので、民有林から伐木《ばつぼく》して薪《まき》を運ぶのに、嶮岨《けんそ》な峰を牛の背でやった。製煉《せいれん》された硫黄も汽車の便がある土地まで牛や馬が運んだ。東京や横浜へ送られると、運賃と相殺《そうさい》でフイになってしまう。

 その後も幾度か繰返された失敗のあとで、晩年を湯川氏夫妻は長谷川氏に引きとられた。八十を越しても硫黄の熱は燃《もえ》ていた。小さい机にしがみついたまま、贅沢《ぜいたく》は身の毒になると、蛍火《ほたるび》の火鉢に手をかざし、毛布《ケット》を着て座っていた。例により珠算《たまざん》と、細かい字と、硫黄の標本をつくったり、種々にして手に入れる硫黄の一つまみを燃したり製煉したりして、庭隅に小さな釜をこしらえたりして首をひねっていた。その頃は父も閑散《かんさん》な身となって佃島《つくだじま》にすんで土いじりをしていたので、一所に植木いじりはしていたが――たまたま粋《いき》な客などが来て、海にむかった室で昼間の一酔《いっすい》に八十翁もよばれてほろよいになると、とてもよい声で、哥沢《うたざわ》の「白酒《しろざけ》」を、素人《しろうと》にはめずらしい唄《うた》いぶりをした。もう大人になっていた私が吃驚《びっくり》すると、老人の老妻は得意で、
「おじいさんは、お金を湯水のようにつかった、いきな人ですよ。」
と彼女も小声で嬉しそうに口の中で何か唄った。
「おじいさんには面白いおはなしもございますのさ。私がね、誰かの初《はつ》のお節句のおり、神田へ買ものにゆきますとね、前の方に
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