《おか》っ引《ぴき》の細君と仲をよくしていたという。自然そんなことから鼠小僧の引廻しも見たのであろう。
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 七ツのアンポンタンに、九ツのアンポンタンに、十一、十二のアンポンタンにおぼろげながら近くの町の人の生活ぶりや身近な人たちのそれがぼんやりとうつってきて、言様《いいよう》のないさびしさと、期望しても期望しても満《みた》されない佗《わび》しさがあった。譬《たと》えて見れば、お正月になったら賑《にぎや》かだろう、――賑かだろうという漠然とした思いのなかに、子供の空想と希望と理想が充満している。それが元旦《がんたん》の夕方ちかくなると、ああ、もう日が暮れるのにと、どうしていいかわからない物足りなさが憂鬱《ゆううつ》をもってくる。それにも似た――事はまるで違うが、日々《ひび》にぶつかる余儀ないさびしさだった。
 ある日、あたしは母の父の顔を穴のあくほど凝《じっ》と見た。この老爺《おじい》さんは寺院《おてら》で見る大木魚《おおもくぎょ》のような顔をしていた。木魚は小さいのは可愛らしいものであるが、大きなのが茵《ふとん》を敷いて座っていると、かなりガクガクとした平たい
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