頓着《むとんじゃく》な父は、細かい計算をよく噛《か》まなかった。損徳よりもただ幾分の出資を捨る気でしたのだったろう。
 老爺さんが得意になると、今まで冷笑していた親類《みより》のものが手伝い志願を申出た。自分たちも損をしただけ取りかえそうという、御直参旗本の当主や子や孫である。
 梅干《うめぼし》幾樽、沢庵《たくあん》幾樽、寝具類幾|行李《こり》――種々な荷物が送られた。御直参氏たちは三河島の菜漬《なづけ》がなければ困るという連中であるから、行くとすぐに一人ずつ一人ずつ落伍《らくご》して帰って来てしまった。そして言うことはおなじだった。
「何しろ、一鍬《ひとくわ》いれるとプンと強く硫黄が匂うのだから、胸が苦しくって飯も食えない。」
 老爺さんの硫黄はよく出来た。しかし近間の山林は官林なので、民有林から伐木《ばつぼく》して薪《まき》を運ぶのに、嶮岨《けんそ》な峰を牛の背でやった。製煉《せいれん》された硫黄も汽車の便がある土地まで牛や馬が運んだ。東京や横浜へ送られると、運賃と相殺《そうさい》でフイになってしまう。

 その後も幾度か繰返された失敗のあとで、晩年を湯川氏夫妻は長谷川氏に引きとられた。八十を越しても硫黄の熱は燃《もえ》ていた。小さい机にしがみついたまま、贅沢《ぜいたく》は身の毒になると、蛍火《ほたるび》の火鉢に手をかざし、毛布《ケット》を着て座っていた。例により珠算《たまざん》と、細かい字と、硫黄の標本をつくったり、種々にして手に入れる硫黄の一つまみを燃したり製煉したりして、庭隅に小さな釜をこしらえたりして首をひねっていた。その頃は父も閑散《かんさん》な身となって佃島《つくだじま》にすんで土いじりをしていたので、一所に植木いじりはしていたが――たまたま粋《いき》な客などが来て、海にむかった室で昼間の一酔《いっすい》に八十翁もよばれてほろよいになると、とてもよい声で、哥沢《うたざわ》の「白酒《しろざけ》」を、素人《しろうと》にはめずらしい唄《うた》いぶりをした。もう大人になっていた私が吃驚《びっくり》すると、老人の老妻は得意で、
「おじいさんは、お金を湯水のようにつかった、いきな人ですよ。」
と彼女も小声で嬉しそうに口の中で何か唄った。
「おじいさんには面白いおはなしもございますのさ。私がね、誰かの初《はつ》のお節句のおり、神田へ買ものにゆきますとね、前の方に
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