食《たべ》ものの世話をしていた。人参やお芋を見物のやる棒のついた板の上に運んでいた。私ははじめ猿芝居かと思っていたがそうではなく、といって、見物に小銭で食物をやらせるのばかりが商業でなく、猿を買出しにくる人もあったかも知れないが、貸猿がおもなのだから、猿廻しの問屋とでもいったらよいかもしれない。
 ざわざわと人の多い、至るところ細い道だった。毎年冬になると鯨《くじら》の味噌漬の樽《たる》がテンコツさんからの到来ものだった。大橋の下へ船がついたからとりにいってくれといってよこした。で、このせまい町から、ある年の冬火事をだしたおり、荷物は大橋から船へ積めと手伝いにゆく者たちはいっていた。
 その時の火事は大きかった。江戸時代の残物で、日本橋区内のコブであった汚《きた》ない町が一掃されたが、哀れな焼け出されも沢山あった。一度眠った私の家が叩《たた》き起された時は、大門通り一ぱい火の子がかぶっていた。家々では大|提燈《ちょうちん》を出して店の灯を明るくした。酒屋はせわしげで、蕎麦屋《そばや》は火をおこし、おでんの屋台はさかんに湯気《ゆげ》をたてた。纏《まとい》がくる、梯子《はしご》がつづく、各
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