きな木綿問屋が現今《いま》でもある。
葭町《よしちょう》を廓の中心地とすると、人形町の名がどうやらわかってくる。人形屋もありはあったが、室町十軒店《むろまちじっけんだな》の方が有名でもあり、数も多い。ここの人形商はおやま[#「おやま」に傍点]商業《あきない》であったことがわかる。親父橋《おやじばし》が渡しで廓がよいに不便だろうと、遊女屋側からかけたので、遊人それを徳とし、その特志家を――実は商業上手を、おやじおやじ[#「おやじおやじ」に傍点]と尊称した名が残ったのであると記録にもある。このよし原が浅草|田圃《たんぼ》に移され、新吉原となってからでも、享楽地としては人形町通りを境にして親父橋|寄《よ》りに、葭町、堺町、葺屋《ふきや》町側に三座の櫓《やぐら》があり、かげま茶屋、色子《いろこ》、比丘尼《びくに》が繁昌《はんじょう》した。今では反対の側の住吉町、浪花町の方に芸妓屋がのこり、明治の末大正にかけて、かきがら町に私娼、大正芸妓があった。
新吉原は浅草公園を外苑地帯として根を張り、あとから移転していった芝居――山之宿の市村座、鳥越《とりこえ》の中村座など、激しい時代転歩にサッサと押
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