ってくる、自分の子でも私の父には、少年が背負されて来た葛籠は見せたくなかった。
「おやそ、こんな葛籠はなぜ焼いてしまわなかった。お前はなぜ猪之《いの》をおぶってすぐに来なかった。」
と、少年の母が来るとすぐ祖母は激しくいった。だが、いかにも後家相《ごけそう》をした、色の黒い、小欲で眼の光っている、痩《や》せた長顔の、綿入れを三枚重ねて着て、もてるだけの荷物の包を両手にさげて、転がったら最後焼け死んでしまいそうなかたちしたおやそさんは、いまや息子のことよりは荷物だった。
「葛籠はまいりましたか?」
と洒然《けろり》として訊《たず》ねた。

 哀れな少年猪之さんは寒夜の火事と、重い葛籠が災いして死んでしまった。
 テンコツさんは大屋さんから立派な家主さんに代った。人形町通りも半分焼けたので銀座に似た煉瓦建《れんがだて》になった。その幾軒かはテンコツさんの持家であった。住居も紳士風にした。石のような羊羹《ようかん》を紙に包んでくれなくなった。
 大きな納屋《なや》――物置きが母屋から離れたところに出来たと思ったらその隅に床をつくり、畳を二畳ばかり敷いておやそさんのいるところが出来た。沢庵桶《たくあんおけ》や漬け菜との同居である。あんまりの事に、こんどは私の母が不服だった。
「家からの仕送りが毎月行くのに、まるで……」
 そんな年齢でもなかったであろうに、おやそさんは鼠《ねずみ》の骨のようにほしかたまっていた。でも何かあると、例の葛籠の中に焼けのこった裾模様の派手なのを着てくるのではたのものの方が困っていた。彼女の嫁入り衣裳《いしょう》なのだから、いかに黒の紋附でも悲惨だった。
 おやそさんは忠実に雇われてきた。夜でも急用があるといえば、巾《はば》の広い木綿じまの前掛けをかけて、提灯《ちょうちん》をさげて、朴歯《ほうば》をならして、謹《つつま》しやかに通ってきた。袋物商の娘だったので、袋ものをキチンとつくった。私たちのお弁当箱の袋や、祖母の巾着《きんちゃく》を気に入るようにつくりあげた。或《ある》日、そのおやそさんが、クドクド祖母や母を説いていた結果が、六つの年からあがった長唄の師匠をとりかえられる事になった。おやそさんの姪《めい》が、杵屋《きねや》勝梅という名取りになったが、まだよい弟子がないのだというのだ。
 私の長唄のおしょさん六喜美さんは、眼玉にホクロのあるような目で、背中が丸くて、猫がコウバコをつくったようなお婆さんだったが、後取《あとと》りにする内弟子のふうちゃんより、名取りのおなっちゃんより私を可愛がって、御自慢で附合|浚《さら》いに連れ廻った。鉄砲町の百瀬《ももせ》という接骨医の裏にいたが、半片《はんぺん》を三角にきって煮附《につ》けたお菜をわけてくれて、絵|硝子《ガラス》のはまった行燈《あんどん》のわきで一緒に御膳をたべさせるのを楽しみにしていた。お浚いの時は、二間の戸棚を開けはなし、中央《まんなか》の柱を上だけぬいて山台《やまだい》にする。十銭札や二十銭札――この間中あったのとは違った――が廃《や》められる時、戸棚の方へむかって、そっと勘定していたが、部厚なのを見せて、誰にもいってはいけないよといった。大きな、どてらを着ていた背中を忘れない。その親しみのある人から離そうというのだから、私は厭《いや》だといった。では、どっちのおしょさんにもやらないと母は叱った。

 浪花《なにわ》町の裏にいた勝梅さんも、焼け出された一家だから、三味線よりほかなんにも持ってなかった。兄さんは叔母《おば》のおやそさんそっくりの人で、肺病かもしれなかった。だんまりで袋物の細工をして、時折トントンと小さい木槌《きづち》の音をたてるばかりだった。母親がおやそさんやテンコツさんの姉さんで、額の大きい、落ちくぼんだ大きな眼――この人は美人だったと思われたが、しどくしどく貧乏にやつれて、骸骨《がいこつ》みたいな顔をしていた。おきみさんという娘は父親似で、大きなふっくりした顔と、フンダンな髪の毛をもっていたが、人がよすぎてポンとしていた。父親の善兵衛さんは、名の通りの人物で、今なら差当り、クラシカルなモデルにでも役にたとうが、そのころでは高い鼻と豊頬《ほうきょう》とのもちぐされで、水鼻をたらして、水天宮様のお札を製造する内職よりほか仕事がなかった。
「六喜美さんは好いお弟子が沢山あるけれど、勝梅さんはお前がいかないと困るのだから。」
と説きおとされて厭々通うことになった。最初は何も教えてはくれなかった。毎日一、二段ずつお浚《さら》いのように唄《うた》わされた。まあ、助六を知っていますか? ではそれを――勧進帳《かんじんちょう》も? 牛若も? まあ、あれも? これも? いい声だいい声だとそやされて無中になって唄った。しまいには、兄さんが体がわるいので気
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング