むずかしいが、やっちゃんの唄をきくと大層よろこぶからと――これは体《てい》のよいおとり[#「おとり」に傍点]で、窓はいつもあけはなち簾《すだれ》だけにしてあったから人だかりがした。そのうちポツポツお弟子が出来てきた。
 お弟子の種類が所がらで面白い、水天宮様のおきよめ[#「おきよめ」に傍点]――門前で五の日五の日に、神前へそなえる小さいお供餅《そなえもち》を細い白紙でちょいと結んで売る商売、中には売色で名高い女もあった。年増《としま》の芸妓の手ほどきなどで、そのうち裏から表通りへ越すようになった。階下《した》が住居で二階が稽古場、壁が汚《きた》ないので古新聞を一ぱいに善兵衛おじいさんが張ってくれた。勝梅さんは色白の毛の薄い大あばたで、眼が見えないから、壁の汚ないのは平気だが、子供のくせに潔癖性で、気味悪げに私が見廻すので、来なくなるといけないからと、大ふんぱつで張ってくれたのだった。
 三味線が二張に見台《けんだい》。そのほかは壁の隅に天理王を祭った白木の小机があるだけ。私はお稽古を待っているうち中、うらさびしさにボンヤリしていた。六喜美さんのところは上り口に赤い鼻緒のポックリが足も入れられないほど並んで、入口の三畳でふうちゃんが下ざらいをしているし、八畳の隅でなっちゃんが出来ない子に撥《ばち》をもってやって教えているし、おしょさんの前にはあとからあとからとおじぎをして出てゆくし、私は縁側で、千なりほおずきをとったり、石菖《せきしょう》に水をやったりして怒られたり褒《ほ》められたり、お手だまをとったり、みんなで鞠《まり》をかがったり、千代紙で畳んだ香箱へ、唄の出来ないところへ貼《は》りつける細かい紙を刻んだり、おちぢれをこしらえたり、お三宝だの菊皿だのと、時間なんて気にもしなかったのに――だが、古新聞はそれらにました悦《よろこ》びを与えた。あたしは善兵衛さんに手伝って、いつになく機嫌よく壁張りの手伝いや見物や助言をした。それは逆さまだ、こっちの面《ほう》へ糊《のり》をつけた方がよいのと。
 古新聞が壁にはられてからあたしはせっせと稽古に通うようになった。番がきてもなかなか座らない。おまけにお弟子がすけないからいつも私の番がすぐにある。私は這入《はい》ってゆくにも足音を忍ばせて、こんちはも言わないで壁にゆく。勝梅さんは内職の毛糸の編物をしているが、勘のよい盲目《めくら》さんで、ニヤニヤ笑いながらいった。
「おやっちゃん、はじめましょう。」
 あたしの背の――目のとどくところのうちは無事だったが、とうとう天理様の机がもちだされることになった。それでたりずに見台まで、鼠がひくようにひっぱった。勝梅さんが不思議がって探り廻しだしたのに吃驚《びっくり》した私は二ツ重ねた足台からおっこって、階下の人を驚かせ、二階へ駈《かけ》上らせた。勿体《もったい》ないといって盲目さんは泣いた。階下からは兄さんが、かわりの読物をかしてくれた。たしか『都の花』という新聞の附録だったが、苦しい生活を知らないあたしは遠慮もなく頁をあわせて立ちきってしまったので、コチコチの兄さんが疳癖玉《かんしゃくだま》を破裂させて梯子段《はしごだん》からどなり上って来た。だが、何が彼をそんなに怒らせたのか分らなかった。
『都の花』は近所からの借ものだったのだ。あたしはまた高いところの古新聞を読んだ。厠《かわや》のはどうにもならないが、梯子段の近辺は手すりにのぼった。窓の近くは窓にのぼり、欄間に手をかけて屋守《やもり》の這うかたちでした。向側のキリ昆布屋から危なくて見ていられないと苦情を申込んで来たので、また兄貴が呶鳴《どな》った。翌日ゆくと、善兵衛おじいさんが股《また》の間へ摺鉢《すりばち》を入れて、赤っぽい大きなお団子《だんご》をゴロゴロやっているので、摺鉢をおさえてやりながら、なににするのだときくと、ただニヤニヤ笑っていたが、やがて、古新聞がお団子色にぬりたてられた。

 兄さんが死んで、おきねさんが三ツ輪に結って、浅黄がのこをかけてお歯黒をつけて、どこかみだらな顔つきになったが、それも見えなくなった。骸骨《がいこつ》の顔に大きな即効紙を張ったおばあさんも死んだ、善兵衛さんはどうしたのか、勝梅さんは天理教をやめて耶蘇《ヤソ》になったといった。外国婦人につれられて歩いているのを見かけたといったものもある。
 おやそさんに、も一人の姉さんがあった。やっぱり近所に住んでいたが、みんな後家《ごけ》さん――後家さんはお母《っか》さん一人で、あとは老嬢《おうるどみす》だったのかも知れないが、女ばかり四人《よったり》してキチンと住んでいた。母子《おやこ》なのだか姉妹なのだかアンポンタンにはわからないほど、梯子段《はしごだん》のようにだんだん年をとった四人だった。一番若い下の娘だけが廿二
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