。まず、弁者は、その近辺でも当時の新智識と目《もく》されたものと見えて洋服を着ていることの多いあたしの父であった。洋服が新時代の目標であったと見える。尤《もっと》も、官員さんの一人もいない土地であって見れば、私の父がハイカラだったのかも知れない。明治十二年官許|代言人《だいげんにん》、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかった最初の仲間の一人であったときいている。
前の日まで、憲法ということの講釈を、若い旦那《だんな》たちの幾人かが熱心に聴きにきた。その人たちが世話役でもあったのであろう。その当日も机をはこんだり、会場のしつらえを問合せに来たりして、いよいよ午後六時前となると、傍聴ファンの動作研究会というような集りになった。どうもまだノーノー、ヒヤヒヤが分明《はっきり》しないという訳なのだった。書生たちまでが一緒に並んでその稽古をやる。父はハイカラな礼服だが、朝からの祝酒《いわいざけ》に、私が大きらいな赤黒い色になっている。手はずしてあった個処《かしょ》で、合図を忘れるので、ファン連は、困りきって、演説を暗誦《あんしょう》しておこうと努力したが父は面倒くさがっていた。俺
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