「閑古鳥《かんことり》」と並んで、有名な日本橋の「竜神《りゅうじん》」とは違うが維新の時国外へ流れ出てしまった、この有名な蘭陵王の面は、アメリカにあるとかいった。大丸では当時の町総代が京都までいって織らせた、蘭陵王の着用の裂《き》れ地の価値を知っているので、それを造って飾った。その日|何処《どこ》でもしたという酒樽《さかだる》のいくつかが、大丸の前にもかがみが抜いて柄酌《ひしゃく》がつけて出された。
油町側では憲法発布の由来というような、通俗的な演説会といったふうなものを催した。そんな時にこそ大丸が会場であるはずなのだが、町内の関係で油町の加賀吉という大店で開かれた。そこはたしか山岸荷葉氏――紅葉《こうよう》門下で、少年の頃は天才書家として知られていた人である――の生家で、眼鏡や何かの問屋だった。年の暮のえびす講などに忘年芝居を催したりする派手な店で北新道のあたしの家の並びの荷蔵に、荷車で芝居の道具を出しに来たりしていた。その店が会場となり演説の卓《つくえ》がおかれた。
そんな事はお江戸|開闢《かいびゃく》以来のことと見えて、アンポンタンの幼い頃にも忘れない不思議な光景を残している。まず、弁者は、その近辺でも当時の新智識と目《もく》されたものと見えて洋服を着ていることの多いあたしの父であった。洋服が新時代の目標であったと見える。尤《もっと》も、官員さんの一人もいない土地であって見れば、私の父がハイカラだったのかも知れない。明治十二年官許|代言人《だいげんにん》、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかった最初の仲間の一人であったときいている。
前の日まで、憲法ということの講釈を、若い旦那《だんな》たちの幾人かが熱心に聴きにきた。その人たちが世話役でもあったのであろう。その当日も机をはこんだり、会場のしつらえを問合せに来たりして、いよいよ午後六時前となると、傍聴ファンの動作研究会というような集りになった。どうもまだノーノー、ヒヤヒヤが分明《はっきり》しないという訳なのだった。書生たちまでが一緒に並んでその稽古をやる。父はハイカラな礼服だが、朝からの祝酒《いわいざけ》に、私が大きらいな赤黒い色になっている。手はずしてあった個処《かしょ》で、合図を忘れるので、ファン連は、困りきって、演説を暗誦《あんしょう》しておこうと努力したが父は面倒くさがっていた。俺《おれ》が、このコップをこうあげたらヒヤヒヤだ、机の此処《ここ》へ手をやったら否《ノー》だ。こういう風になったら拍手だと教える。だが、やって見るとノーノーもヒヤヒヤも拍手も入交ぜとなる、何度繰返してもおんなじなので、まあいいやということになってしまった。今の言葉ならばそれが自然だというところだったろうが――
聴衆は表の通り一ぱいの黒山だった。解《わか》ったのか解らないのか、ともかくとてもおめでたい事という概念と、はちきれるほど一ぱいなお祭り気分で、ノーノー、ヒヤヒヤ、拍手|喝采《かっさい》、何もかもメチャクチャに景気よく、弁士を胴上げにして家まで送って持って来た。そのあとが馬場勝《ばばかつ》一派の長唄《ながうた》――馬場は浅草橋の橋手前、其処《そこ》に住む杵屋《きねや》勝三郎といった長唄三味線の名人、夜一夜《よひとよ》唄うにまかせ、狂うにまかせ、市中は明るい不眠症にかかって、そこら中で花瓦斯《はなガス》が燃え酒樽が空《あ》いた。雪をこねかえした泥濘《ぬかるみ》に、お酒にお腹《なか》の袋を破った死人がゴロゴロ転がった。
多分戸を閉めないで寝た家が多かったろう。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
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