者が、風はなし、自由に広しするので遊びにゆくので、とても壮観な位に、しまいには屏風もとりはらってしまっての追羽根になる。騒々しい位の羽根の音だ。
 糸店《いとだな》によった方に舞台があって、立派な衣装をつけた芝居を番頭たちが演《や》っている。そこも見物はギッシリだ。だがこうした足どめ策をしても、やっぱり外に忍び出るものは多かった。
 この広い店、中央の羽根つき場になる個所はずっと天井が高く、明《あか》りとりになっていて廻りだけにぐるりと二階がある。お客を接待する座敷の方は立派できれいだが、それでも薄暗かった。なぜなら、中央の広場の方の手すりから光りはくるが、肝心な表通りへ面した方には、たしか窓もない盲目建《めくらだて》だったからである。窓があったとしても、小さなので、細かい、格子ででもあったのであろう。そこから明りがさしたようには覚えていない。床の間には、小谷さんの娘さんがさした、大きな松竹梅の生花が飾ってあった。合宿室も、そうした二階のそこらにあった。台所に近い蔵前には、各自の姓名《なまえ》をかいた雑煮箸《ぞうにばし》の袋が、板張りに添って細い板割で造った、幾筋かの箸たての溝に、ずらりと並んではさんであった。
 ある番頭が、羽根を突いていて、暑くなったので糸織の羽織をぬいで小僧に渡した。羽織の裏は大きな帆かけ船があって七福神が乗っているのだった。宝と書いてある帆は繻子《しゅす》で盛上っていた。帆づなの金糸《きんし》をひくと、帆がひっくりかえって――アンポンタンは多分宝ものが沢山積んであるものだろうときめていたからよく見もしないで、蜜柑《みかん》まきのみかんを拾うのに無中だったが、その船のうちこそ、彼らが給料をのこらずかけたといってもよい、手のこんだ不思議な細工だということであった。禁欲された彼らが、不自然な生活は哀れなものであったろう。誰も彼も胃病患者に違いない――もしくは十二支腸虫患者か、みんな生気のない、青びょうたんみたいだった。
 だが、不思議に元日に間違いはなく――もっとも大僧より小僧の方の悦《よろこ》びの日だったのだ。大きいものはもう昼から夕方になると、段々にかげをかくしてしまった。そして無邪気な、近所のものがのさばりかえった。

 大丸の神棚の下に納まっている大番頭たちは、みんな近くに家を持っていた。蔵附きの中流以上の構えである。面白いことに養子制度で
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