蕎麦屋の利久
長谷川時雨
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)漂《ただよ》っていた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊勢|朝長《あさおさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「の」の中に小さく「り」、屋号を示す記号、48−11]
−−
角の荒物屋が佐野吾八さんの代にならないずっと前――私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂が漂《ただよ》っていた時代――そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで、上《あ》げ板《いた》を叩《たた》いて「番頭さん熱いよ」とうめ湯をたのんだり、小唄《こうた》をうたったりすると、どうしても洗湯《おゆや》の隣りに住んでる気がしたり、赤児《こども》が生れる泣声に驚かされたりしたと祖母がはなしてくれた。
この祖母が、八十八の春、死ぬ三日ばかり前まで、日髪《ひがみ》日風呂《ひぶろ》だった。そういうと大変おしゃれに聞えるが、年寄のいるあわれっぽさや汚《きた》ならしさがすこしもなく、おかげで家のなかはすがやかだった、痩《や》せてはいたが色白な、背の高い女で、黒じゅすの細い帯を前帯に結んでいた、小さいおちょこで二ツお酒をのんで、田所町の和田平か、小伝馬《こでんま》町三丁目の大和田の鰻《うなぎ》の中串を二ツ食べるのがお定《きま》りだった。
祖母のお化粧部屋は蔵《くら》の二階だった。階下《した》は美しい座敷になっていたが、二階は庭の方の窓によせて畳一畳の明りとりの格子《こうし》がとってあり、大長持《おおながもち》やたんすその他の小引出しのあるもので天井まで一ぱいだった。中央の畳に緋毛氈《ひもうせん》を敷き、古風な金《かね》の丸鏡の鏡台が据《すえ》てあった。
三階の棟柱《むなばしら》には、彼女の夫の若かった時の手跡《しゅせき》で、安政三年長谷川卯兵衛建之――と美事《みごと》な墨色を残している。その下で八十の彼女は、日ごとに、六ツ折りの裾《すそ》に絵をかいた障子屏風《しょうじびょうぶ》を廻《めぐ》らし黒ぬりの耳盥《みみだらい》を前におき、残っている歯をお歯黒で染めた。銭亀《ぜにがめ》ほどのわりがらこに結って、小楊子《こようじ》の小々太い位なのではあるが、それこそ水の垂れそうな鼈甲《べっこう》の中差《なかざし》と、みみかきのついた後差《うしろざ》しをさした。鏡台の引出しには「菊童《きくどう》」という、さらりとした薄い粉白粉《こなおしろい》と、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏卵《たまご》の白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油燻《ゆくん》をとるのに、元結《もとゆい》でつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真黒《まっくろ》にならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭《ふ》いてゆくのだからと――今思えば、それが眉墨《まゆずみ》であったのだが――
祖母は身だしなみが悪い女《ひと》を叱った。
「おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己惚《うぬぼ》れるならおやめ。」
文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛熟期《らんじゅくき》の、文化文政の面影を止《とど》めていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。
ある年九月廿日、芝の神明様《しんめいさま》のだらだら祭りに行くので、松蔵の俥《くるま》に、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺《こん》ちりめんへ雨雲を浅黄《あさぎ》と淡鼠《ねずみ》で出して、稲妻を白く抜いた単《ひとえ》に、白茶《しらちゃ》の唐織《からおり》を甲斐《かい》の口《くち》にキュッと締めて、単衣《ひとえ》には水色《みずいろ》太白《たいはく》の糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日陰町《ひかげちょう》のせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾配《こうばい》をもった大屋根が、いつも其処《そこ》へ来ると威圧するように目にくるのを避《よ》けられないように、まじまじ見詰《みつ》めながら通った。
祖母は伊勢|朝長《あさおさ》の大庄家の生れで、幼少な時、童《わらべ》のする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五十鈴《いすず》河は末流《すえ》の方でもはいってはいけない、ことに女人はだが――夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月光《つき》は何処《どこ》からか洩《も》ってきて浴《あび》る水がキラリとする。瀬《せ》が動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這《は》うようにして上陸《あが》る――
その折こうも言った。香魚《あゆ》は大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、その香《か》のよいことと――
あたしは先年、神路山《かみじやま》が屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵《ふち》で、人をおそれぬ香魚が鯉より大きく肥《ふと》っているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。
帰途《かえり》は、めっかち生芽《しょうが》とちぎ箱《ばこ》がおみやげ、太々餅《だいだいもち》も包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女の掴《つか》んでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。
「御隠居さん、今日は松田ですか?」
俥《くるま》の上と下で、帰りのお夜食の寄りどころが定《き》まった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが――そこで。京橋ぎわの(日本橋の方からゆけば京橋を渡って)左側、料理店松田へ寄った。巾《はば》の広い階子段《はしごだん》をあがって二階へ通った。
「松さんはよいものをおとり。」
顔馴染《かおなじみ》の女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣座《ござ》の座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。
八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車座《くるまざ》になった。祖母のお膳《ぜん》には大きな香魚《あゆ》の塩焼が躍《おど》っている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。
松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、
「嬢《じょ》っちゃん、早くこちらへ来て――」
と顫《ふる》えた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。
と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方の室《へや》へ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一団《ひとかたまり》が、喧《やかま》しくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングン傍《そば》を通っていった。
別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。
「大丈夫です。みんな表|梯子《ばしご》の方ばかり見張っていますから。」
と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈出《かけだ》した。
「おそろしやおそろしや、この子を支那人《なんきん》が浚《さら》おうとして――」
と、俥をおりると祖母は家の者に言った。
赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、釣《つり》らんぷの下へ蚊帳《かや》を釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈《ランプ》がおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布団《ふとん》のまま引摺《ひきず》り出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎麦屋《そばや》のおばあさんを困らしたが――
丁度ここに、いつぞや『婦人公論』へ書いた短文をはさもう。
隣家の蕎麦屋で粉《こな》をふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露地《ろじ》ひとつへだてて、そばやの飛離れた納屋《なや》があったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後日《あと》できいた思出でしょうが、そのふるい[#「ふるい」に傍点]の音も厭《いや》だったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。「利久」といって、主人になった息子とお媼《ばあ》さんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋骨《あばらぼね》の立った胸を出して、大肌《おおはだ》ぬぎで、真暗《まっくら》なところに麺棒《めんぼう》をもってこねた粉をのばしていると、傍に大|釜《がま》があって白い湯気が立昇《たちのぼ》っていたり、また粉をふるっている時は――宅の物置のつづきのさしかけで、角《かど》の小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺《しわ》がれた肩には、汚《きた》ない濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》が肩掛のように結びつけられてあって、白髪《しらが》まじりの毛がそそげ立って、斑《まだら》にはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せつけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにその媼《ばば》はコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。
ある時、祖母の従兄《いとこ》だというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょん髷《まげ》が、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御馳走《ごちそう》をして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人交《ひとま》ぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太鼓《たいこ》をたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯子段《はしごだん》のところから覗《のぞ》いていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢|音頭《おんど》を踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ――わたしは最近伊勢の古市《ふるいち》までいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼目《おさなめ》にのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。
こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。
利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟《むね》で、二ツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜場《かまば》になっていた。
激しいコレラの流行《はや》った最終だというが、利久はお媼《ばあ》さんがコレラで死ぬとすぐに倒産《つぶ》れた。万さんという息子は日雇人夫《ひようとり》になったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼酎《しょうちゅ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング