う》をうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんが宅《うち》へ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、糊《のり》を煮ていた。お天気のよい日、朝の間《ま》に、御不浄《ごふじょう》の窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣紋《えもん》にして、背中の弘法《こうぼう》さまのお灸《きゅう》あとや、肩のあんま膏《こう》を見せて、たすきがけでお釜の中のしめ[#「しめ」に傍点]糊を掻《か》き廻していた。※[#「の」の中に小さく「り」、屋号を示す記号、48−11]とした看板がかけてあって、夏の午前《あさ》は洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平日《ふだん》でも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。
 コレラは門並《かどなみ》といってよいほど荒したので、葛湯《くずゆ》だの蕎麦《そば》がきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家の厠《かわや》は破《こわ》して莚《こも》をさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。
 深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、反《そ》り身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪《めい》だけに何処《どこ》かよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐに引返《ひっかえ》してきて、お客様が変だとおろした。
 門から這入《はい》って、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相恰《そうごう》が変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。
 幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍鶏屋《しゃもや》をはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝染《うつっ》て、二、三日のうちに三人もいなくなってしまった。
 この西川屋一家も以前《もと》は大門通りに広い間口を持っていた。蕎麦屋の利久の斜向《すじむか》いに――現今《いま》でも大きな煙草《タバコ》問屋があるが、その以前は、呉服|用達《ようた》しの西川屋がいたところである。そこの主人《あるじ》はあたしの祖母の兄で、早くから江戸に出ていた。先妻に縹緻《きりょう》よしの娘を生ませたが、奥女中|上《あが》りの後妻が継児《ままこ》いじめをするので、早くから祖母の手にひきとられ、年下のあたしの父の許嫁《いいなずけ》となった。
 後妻は由次郎、鉄五郎、おたけさんを生んだ。父親が歿《なく》なると、男振りのよい忰《せがれ》たちは直《じき》に店をつぶしてしまった――尤《もっと》もそれには御維新の瓦解《がかい》というものがあった故《せい》もあろうが――二人の忰はありったけの遊びをして、由次郎はコレラでなくても長くは生きないようになっていた。
 鉄さんが鉄公になったころは散々で、もう仕たい三昧《ざんまい》の果だった。賭博場《ばくちば》を軽《ころ》げ歩き、芸妓屋の情夫《にい》さんになったり、鳥料理《とりや》の板前になったり、俥宿の帳附けになったり、頭《かしら》の家に厄介になったり、遊女《おいらん》を女房にしたりしているうちに、すっかり遊人風になり金がなくなると、蛆虫《うじむし》のように縁類を嫌がらせた。
 この男、あたしの目に触れだしたのは、越前堀《えちぜんぼり》のお岩|稲荷《いなり》の近所に何《な》にかに囲われていたころだった。染物屋《こうや》の張場《はりば》のはずれに建った小家で、茄子《なす》の花が紫に咲いていた。白っぽくって四角い顔のお婆さんが、鉄の悪口をグショグショと祖母に語っていた。でも、その時分鉄さんは、父に用事を言いつけられると、ヘイ、と分明《はっき》り返事をして、小気味よく小用をたしていた――尤もむずかしい仕事ではない、家のなかの雑用だが――彼は見かけだけは稜々《りょうりょう》たる男ぶりだった。ちょっと類のすくない立派な顔と体をもっていた。面長な顔に釣合った高い鼻、大きなきれの長い眼、一口に苦味走った男だったが、心根は甘かったものと見える。母親が、夜になると忍ぶようにして勝手口からたずねてくると、祖母の膝《ひざ》の前にうずくまって恵みを願っている。その女が帰ってしまうと祖母は溜息《ためいき》をついて、
「えらい女《ひと》をもらってしまって、あの女《ひと》のために西川屋もつぶれた。あの女の心がけがわるいからだが――」
 だが、奥女中姿の裲褂《かいどり》で嫁に来た時はうつくしかったと、不便がって貢《みつ》いでいた。
 ある日祖母は、例によって私をつれて、山の手の坂のある道を行った。富坂というところだと松さんは言った。露路へはいりながら、しどい場処《ところ》ですといって番地と表札をさがしたが、西川鉄五郎の家はどうしても知れないので空家《あきや》のような家で聞くと、細い細い声で返事をした。
「此処《ここ》でございます、此処でございます。」
 祖母は松さんに手をとられてはいっていった。畳もなければ根太《ねだ》も剥《は》いである。
「御|隠居《いんきょ》さん」
 戸棚を細目にあけてそう言ったのは、二、三日前の晩、袢纏《はんてん》を紐《ひも》でしばって着てきて、台所で叱られていた女だった。
「座るところはなくともよいから出ておいで。」
 祖母はそう言ったが、やがて、モゾモゾと半裸体の女が這《は》い出してきた。
「やれやれ、まあ!」
 呆《あき》れた祖母は、俥に乗せてきた包みを松さんに取りにやった。
「お前をそんなにして投《ほう》りだしておいて、鉄の人非人は何処《どこ》へいった。」
というと、褌《ふんどし》ひとつで戸棚から、
「面目も御座《ござ》いません。」
と這出してきた。そして、祖母が救いに来たのだと知ると、一昨日の晩、女が死ぬような病気で、どっと寝ておりますといったのは、二人《ふたり》ともすっかり忘れてしまって、裸でも元気な調子でともかくやりきれないという事を、子供のあたしにも面白くきかせるほど巧みにしゃべりたてた。
「よし、よし。貴様はのたれ死しようと勝手だが、女子《おなご》はそうはゆかぬ。」
 祖母がいるうちに、米屋からは米がはこばれ、炭屋からは炭がきた。松さんが運んだ包みから出た着物を女は着た。
 鉄さんは景気よく根太のつくろいをして、戸棚の中に敷いていた花莚《はなむしろ》をおき、松さんは膝掛《ひざか》けを敷いて祖母とあたしのいるところをつくった。
 こんな処へ来ても、人ぎらいをしない祖母は、てんやから食物《たべもの》をとって、みんなで会食した。酒が廻ると鉄さんは、どんなふうにして大屋をこまらせてやったとか、畳は売ってしまって、根太は薪《まき》のかわりに燃したと雄弁にまくしたてて叱られた。
 家にかえっても何にも言わないので、祖母はあたしを可愛がった。妹は外でおとなしく、帰るとすぐ告げ口をするので、猫かぶりだといって、いつもおいてきぼりにされていた。言いつけ口は嫌いだが、決してもの事を隠しだてするひとではなかったから、帰るとすぐその晩か、遅くもあくる夜は、松さんの俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。
「無駄だけれど――」
と言いながら母は布団《ふとん》やその他のものを積ませた。
 だが、鉄さん自身が浅間《あさま》しい姿で、地虫のように台所口につくばった時、祖母は決してゆるさなかった。同情の安売りはしなかった。取次ぎが、ぜひ御隠居様にお目にかかりたいと申《もうし》ますと伝えたとき、台所の敷居に手をつくようなことをせず、表から来いと言わせた。
 彼女は卑屈を嫌ったが、決して貧乏を厭いはしない。ところが、哀れな鉄さんは、卑屈をいやしまず貧乏を鼻白《はなじろ》んだ。彼は何時《いつ》までもウジウジ屈《かが》んでいた。祖母は堪《たま》らなくなったと見えて台所口へゆくと柄酌《ひしゃく》に水をくんで鉄さんの頭からあびせかけた。
「とっととゆけ、用があらば伯母《おば》の家《うち》だ、表からはいれ。」
 そう怒鳴《どな》った。ブツブツ口小言をいっていた母が、かえって気の毒がって小銭を与えたりした。
 鉄面皮な甥《おい》は、すこしばかり目が出ると、今戸の浜金の蓋物《ふたもの》をぶるさげたりして、唐桟《とうざん》のすっきりしたみなりで、膝を細く、キリッと座って、かまぼこにうにをつけながら、御機嫌で一杯いただいていた。そんな日にはいやに青い髭《ひげ》だと思った。
 この男、晩年に中気《ちゅうき》になった。身状《みじょう》が直ってから、大きな俥宿の親方がわりになって、帳場を預かっていたので、若いものからよくしてもらっているといった。それでも若い衆におぶさって一度|逢《あ》いたいからと這入《はい》って来た時に、みぐるしくはなかった。大きな男が、ろれつの廻らぬ口で何か言いながら、はいはいした顔を出した時、みんなびっくりした。
「お前なぞ、そんないい往生が出来るなんて――よく若い者が面倒見てくれるな。」
 父がそう言うと、
「全く――裸で湯の帰りに吉原へ女郎買いにいったりした野郎が――全く、若いものがよくしてくれます。」
と言った。逢いたいにも逢いたかったが、世話になる部屋の若い者に礼をしてくれと頼むのだった。

 さて、
 イッチク、タイチク、タエモンドンの乙姫《おとひめ》さまが、チンガラホに追われて――
などと、大きな声で唄《うた》いつれていたアンポンタンも小学校へあがる時季が来た。そのころは勝手なもので、六歳でも許したものだった。尋常代用小学校といっても小さく書いてあるだけで、源泉学校だけの方が通りがよかった。重《おも》に珠算《しゅざん》と習字と読本だけ、御新造《ごしんぞ》さんも手伝えば、お媼《ばあ》さんもお手助けをしていた。
 引出しが二つ並んでついた机を松さんが担いで、入門料に菓子折を添え、母に連れられて学校の格子戸をくぐった。先生は色の黒い菊石面《あばたづら》で、お媼さんは四角い白っちゃけた顔の、上品な人で、昔は御祐筆《ごゆうひつ》なのだから手跡《しゅせき》がよいという評判だった。御新《ごしん》さんはまだ若くって、可愛らしい顔の女だった。
 格子戸をはいると左に、別に障子を入れた半住居の座敷があって、その上の二階は客座敷になっていた。先生は怖《こわ》いから大変年をとった人だと思ったが、多分三十位だったかも知れない。お媼さんは先生のことを秋山が秋山がと言った。
 翌日からみんなと机をならべるのだった。お昼すこし前になると、おみやげのお菓子を配った。今朝登校のときに松さんがもって来た大袋四ツが持出されて、うまい具合に分配されてゆくのだった。世話やきの子供が幾人かで、全校の生徒の机の上に、落雁《らくがん》を一個二個ずつ配ると、こんどは巻せんべを添えて廻る。その次は瓦煎餅《かわらせんべ》という具合にして撒《ま》ききるのだ。
 母の覚え書きがあるから記しておこう。
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於保《おやす》手習《てならい》初メ
金五十銭に砂糖折
外《ほか》に子供衆へ菓子五十銭分。
そのほか覚。
一月年玉分    五十銭
七月盆 礼    五十銭
試験       七十銭
月謝       三十銭
年暮       玉子折
年玉       五十銭
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外に暑寒
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 なんと安価なものではないか。しかし、お豆腐は一丁五|厘《りん》であったのを、お豆腐やの前で読んだから知っている。お米のねだんは知らないから書くことが出来ない。
 試験が割合にかか
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