《きた》ない濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》が肩掛のように結びつけられてあって、白髪《しらが》まじりの毛がそそげ立って、斑《まだら》にはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せつけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにその媼《ばば》はコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。
 ある時、祖母の従兄《いとこ》だというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょん髷《まげ》が、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御馳走《ごちそう》をして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人交《ひとま》ぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太鼓《たいこ》をたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯子段《はしごだん》のところから覗《のぞ》いていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢|音頭《おんど》を踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ――わたしは最近伊勢の古市《ふるいち》までいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼目《おさなめ》にのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。
 こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。

 利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟《むね》で、二ツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜場《かまば》になっていた。
 激しいコレラの流行《はや》った最終だというが、利久はお媼《ばあ》さんがコレラで死ぬとすぐに倒産《つぶ》れた。万さんという息子は日雇人夫《ひようとり》になったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼酎《しょうちゅう》をうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんが宅《うち》へ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、糊《のり》を煮ていた。お天気のよい日、朝の間《ま》に、御不浄《ごふじょう》の窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣紋《えもん》にして、背中の弘法《こうぼう》さまのお灸《きゅう》あとや、肩のあんま膏《こう》を見せて、たすきがけでお釜の中のしめ[#「しめ」に傍点]糊を掻《か》き廻していた。※[#「の」の中に小さく「り」、屋号を示す記号、48−11]とした看板がかけてあって、夏の午前《あさ》は洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平日《ふだん》でも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。
 コレラは門並《かどなみ》といってよいほど荒したので、葛湯《くずゆ》だの蕎麦《そば》がきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家の厠《かわや》は破《こわ》して莚《こも》をさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。
 深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、反《そ》り身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪《めい》だけに何処《どこ》かよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐに引返《ひっかえ》してきて、お客様が変だとおろした。
 門から這入《はい》って、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相恰《そうごう》が変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。
 幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍鶏屋《しゃもや》をはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝染《うつっ》て、
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