《は》うようにして上陸《あが》る――
その折こうも言った。香魚《あゆ》は大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、その香《か》のよいことと――
あたしは先年、神路山《かみじやま》が屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵《ふち》で、人をおそれぬ香魚が鯉より大きく肥《ふと》っているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。
帰途《かえり》は、めっかち生芽《しょうが》とちぎ箱《ばこ》がおみやげ、太々餅《だいだいもち》も包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女の掴《つか》んでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。
「御隠居さん、今日は松田ですか?」
俥《くるま》の上と下で、帰りのお夜食の寄りどころが定《き》まった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが――そこで。京橋ぎわの(日本橋の方からゆけば京橋を渡って)左側、料理店松田へ寄った。巾《はば》の広い階子段《はしごだん》をあがって二階へ通った。
「松さんはよいものをおとり。」
顔馴染《かおなじみ》の女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣座《ござ》の座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。
八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車座《くるまざ》になった。祖母のお膳《ぜん》には大きな香魚《あゆ》の塩焼が躍《おど》っている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。
松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、
「嬢《じょ》っちゃん、早くこちらへ来て――」
と顫《ふる》えた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。
と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方の室《へや》へ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一団《ひとかたまり》が、喧《やかま》しくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングン傍《そば》を通っていった。
別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。
「大丈夫です。みんな表|梯子《ばしご》の方ばかり見張っていますから。」
と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈出《かけだ》した。
「おそろしやおそろしや、この子を支那人《なんきん》が浚《さら》おうとして――」
と、俥をおりると祖母は家の者に言った。
赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、釣《つり》らんぷの下へ蚊帳《かや》を釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈《ランプ》がおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布団《ふとん》のまま引摺《ひきず》り出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎麦屋《そばや》のおばあさんを困らしたが――
丁度ここに、いつぞや『婦人公論』へ書いた短文をはさもう。
隣家の蕎麦屋で粉《こな》をふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露地《ろじ》ひとつへだてて、そばやの飛離れた納屋《なや》があったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後日《あと》できいた思出でしょうが、そのふるい[#「ふるい」に傍点]の音も厭《いや》だったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。「利久」といって、主人になった息子とお媼《ばあ》さんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋骨《あばらぼね》の立った胸を出して、大肌《おおはだ》ぬぎで、真暗《まっくら》なところに麺棒《めんぼう》をもってこねた粉をのばしていると、傍に大|釜《がま》があって白い湯気が立昇《たちのぼ》っていたり、また粉をふるっている時は――宅の物置のつづきのさしかけで、角《かど》の小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺《しわ》がれた肩には、汚
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