町の構成
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本町《ほんちょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)これは丁度|現今《いま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の説明
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)黒ぬりの※[#「銀行」を表す「地図記号」の中に丸、屋号を示す記号、22−8]こういう看板に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ここは何処の細道じゃ/\
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 一応はじめに町の構成を説いておく。
 日本橋通りの本町《ほんちょう》の角からと、石町《こくちょう》から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今《いま》は電車線路のあるもとの石町通りが街《まち》の本線になっているが、以前《もと》は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬《おおでんま》町、通旅籠《とおりはたご》町、通油《とおりあぶら》町、通塩《とおりしお》町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰《ばくろ》町、小伝馬《こでんま》町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処《そこ》には、弘法大師《こうぼうだいし》と円光大師《えんこうだいし》と日蓮祖師《にちれんそし》と鬼子母神《きしぼじん》との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門《おおもん》通がある。
 そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告《なの》っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道《ひょうたんじんみち》とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸《みどりがし》まで両側の大通りと平行していた。
 面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが――
 しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸《だいまる》という名詞がある。これは丁度|現今《いま》三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地《はんじょうち》中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然《きぜん》と聳《そび》えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助《ごんすけ》が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。

 問屋町の裏側はしもたやで、というより殆《ほとん》ど塀《へい》と奥蔵《おくぐら》のつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出《そとで》をする時とか、内密《ないしょ》の人の訪れるところとなっている。だからとても淋《さび》しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋――店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄《げんろく》の昔|其角《きかく》がよんだ句にもある、金物問屋が角並《かどなみ》にある、大門通りのめぬきの場処である――その他に、利久という蕎麦屋《そばや》、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝《ちょうほう》な荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。
 煩《うる》さくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角――あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついていて木の戸があった。内には縄や筵《こも》が入れられてあったが、そのまた向う角が、立派な土蔵づくりの八百屋、後には冬は焼芋屋になり、夏には氷屋になった。その店の焼芋はすばらしく大きかったので、遠くからも買いに来た。他処《ほか》では見られないことは、この家、この店土蔵だけの住居で二階が住家《すみか》であり、小さな物干場へは窓から潜《くぐ》り出していた。芋屋の並びはほとんど金物問屋ばかり、火鉢ばかりの店もあれば金《かな》だらいや手水鉢《ちょうずばち》が主な店もあり、襖《ふすま》の引手《ひきて》やその他細かいものの上等品ばかりの店もあり、笹屋という刃物ばかりのとても大きな問屋もあった。銅、鉄物問屋はいうに及ばない。
 大門通りも大丸からさきの方は、長谷川町、富沢町と大呉服問屋、太物《ふともの》問屋が門並《かどなみ》だが、ここらにも西陣の帯地や、褂地《うちかけじ》などを扱う大店《おおだな》がある。
 荒物やの正面向う角が両替屋で、奇麗な暖簾《のれん》がかかっていて、黒ぬりの※[#「銀行」を表す「地図記号」の中に丸、屋号を示す記号、22−8]こういう看板に金字で両替と書いたのが下げてあった。そこの家はいつも格子がすっかりはまっていて、黒い前掛けをかけた、真中《まんなか》から分けた散髪の旦那《だんな》と、赤い手柄の細君がいる奇麗な小さな角店だった。その隣りが酒屋の物置と酒屋の店蔵で、そのさきが煙草《タバコ》問屋、煙管《キセル》の羅宇《ラオ》問屋、つづいて大丸へむかった角店の仏具屋の庭の塀と店蔵だった。
 あたしの家の真向こうに――三立社の尻《しり》にこの辺にはあるまじいほどささやかな、小さな小屋で首を振りながら、終日《いちにち》塩せんべを焼いているお婆さんがあった。その隣家《となり》はこんもりした植込みのある――泉水などもある庭をもった二階家で、丁度そこの塀を二塀ばかりきりとって神田上水の井戸があるのを、塩せんべ屋のお婆さんが井戸番をしているようなかたちだった。あたしの家の裏の井戸は玉川上水だった。
 その二階家は「炭勘」という名の――炭屋勘兵衛とでもいったのだろう。鼈甲細工屋《べっこうざいくや》のになっていたが、黒い三巾《みすじ》の垂れ暖簾《のれん》に※[#山のかたちの下に炭、屋号を示す記号、23−4]《いりやまずみ》の白ぬきのれんが、鼈甲屋とは思わせない入口だった。尤《もっと》もそこは青柳という会席料理《おちゃや》だったのだそうで、炭勘はその後《うしろ》から前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。その側《そば》に、私の父の俥《くるま》をうけもって、他《ほか》に曳子《ひきこ》を大勢おいていた俥宿《くるまやど》があった。
 なんで細かく此処《ここ》まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵《にぐら》ばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故《なぜ》かというと、三誠社という馬車《うまぐるま》を扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人《とがにん》の引廻しの馬舎《うまや》だったというのだ。町巾《まちはば》が其処《そこ》だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さな祠《ほこら》を祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那《ろうだんな》もあった。
 アンポンタンが三ツか四ツの時、額《ひたい》の上へ三日月形の前髪の毛をおいた。それまでは中剃《なかぞ》り(頭の真ン中へ小さく穴をあけて剃っていること)をあけたおかっぱで、ヂヂッ毛とおやっこさんをつけていた(ヂヂッ毛は頸《えり》のボンノクボに少々ばかり剃《そり》残してある愛敬毛《あいきょうけ》、おやっこさんは耳の前のところに剃り残したこれも愛敬毛)。そのほかは青く剃りあげていたのへ、小さいお椀《わん》を伏せて恰好《かっこう》のよい三日月形を剃り残したのだ。その時向うのせんべやのお婆さんが、剃刃をあてるのに動かないようにと、おせんべにするふかしたしん粉《こ》をもって来てくれて、あたしの祖母が、狆《ちん》を拵《こし》らえて紅《べに》で色どってくれた。それに味をしめて、さかゆきをするたんびに、おせんべやの店へとりにゆくと、首振り婆さんは、私の家の門の桜の木の上へ出そめた三日月を指さして、
「のん、のん、此処《ここ》にも、あすこにも。」
と、あたしの頭を指で押して、空をも指さすのだった。
 お婆さんの息子は車力《しゃりき》だった。あたしは鹿《か》の子《こ》絞《しぼ》りの紐《ひも》を首の後《うしろ》でチョキンと結んで、緋金巾《ひかなきん》の腹がけ(金巾は珍らしかったものと見える)、祖母《おばあ》さんのお古《ふる》の、絽《ろ》の小紋の、袖の紋のところを背にしたちゃんちゃんこを着せられて、てもなくでく人形のおつくりである。
 ――ある時(妹でも出来た時かも知れない)、理髪店《かみゆいどこ》ではじめて剃ってもらった時、私ははじめじぶくったが、あたしを抱いていた女中が大層機嫌がよかったので、しまいにはあたしまで悦《よろこ》んで膝の上で跳《は》ねた。職人はたぶん女中の頸《えり》をおまけに剃ってやっていたのであろうが、あたしがあんまり跳《はね》るので、女中にもなんしょで、ひょいと、あたしのお奴《やっこ》を片っぽとってしまった。あたしはなおさらよろこんだ。機嫌のよい女中におぶさって帰ってくると、すぐおせんべやの首振りお婆さんに見せにいった。ただ笑って、よころんで指で毛のないあとを押し示した。
「あらまあ、お供《とも》さんが片っぽおちて――」
 お婆さんは歯のない口を一ぱいにあいて笑った。だが、この人は直《じ》きなくなって、おせんべやは荷車の置場に、屋根と柱だけが残されるようになった。竹であんだ干籠《ほしかご》に、丸いおせんべの原形が干してあったのも、その傍《かたわら》にあたしの着物を張った張板《はりいた》がたてかけてあったのも、その廻りを飛んでいた黄色の蝶と、飛び去ってしまった。
 角の芋屋がまだ八百屋のころ、お其《その》という小娘が店番をしていた。ちいさい時、神田から出た火事で此処《ここ》らは一嘗《ひとなめ》になって、みんな本所《ほんじょ》へ逃げた時、お其は大溝《おおどぶ》におちて泣き叫んでいたのをあたしの父が助けあげて、抱《かか》えて逃げたので助かったといって、私の赤ン坊の時分からよく合手《あいて》をして遊ばせてくれた。だが、先方《さき》も正直な小娘である。店番をしている時、無銭《ただ》でとっていったら泥棒とどなれと教えこまれていた。あたしはまた、お金というものがある事を知らず、品物は買うものだということをちっとも知らなかった。他人《ひと》のものも、自分のものも、所有ということを知らず、いやならばとらず、好きならばとってもよいと、弁《わきま》えなく考えていたと見え、ばかに大胆で、げじけし[#「げじけし」に傍点]をおさえて見ていたが、急に口へもってゆこうとして厳しく叱られたりしたというが、その時も、お其《その》の店
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