やう》の隨筆には記載されてゐるといふことである。
 橋のかからない前の深川浦《ふかがはうら》――蛤町邊《はまぐりちやうへん》をいふ――は、天正ごろから魚市場があり、造船匠《ふなだくみ》も多く居たといひ、八幡宮は寛永年間には一の鳥居よりうち三四町の間、兩側茶肆、酒肉店軒をならべ、木場《きば》は元祿十年に現在のところへ移つたが、其前《そのまへ》は佐賀町《さがちやう》が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた――附近、幕府の軍艦安宅丸は寛永八年に造られて、ここの藏におさまつてゐたのだ。
 橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の繁華は、淺草新吉原をも凌駕したといふ。八幡鐘《はちまんがね》の後朝《きぬぎぬ》は、江戸情史にあんまり有名すぎる位だ。洲崎は今の遊廓が明治になつて本郷根津《ほんごうねづ》から移つてきてから賑はしくなつたのではなく、
[#ここから1字下げ]
 洲崎茶屋十五六ばかりなるみめかたちすぐれたる女を抱へおき、酌をとらせ、小唄をうたはせ、三味線引き、皷を打て、後はいざ踊らんとて、當世流行伊勢おんどう手拍子を合せて踊り、風流なること三谷の遊女
前へ 次へ
全19ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング