また》の片岸《かたぎし》、濱町――大川の浦には、五六十年後の寶暦十年には、國學者|縣居《あがたゐ》の翁《おきな》賀茂眞淵《かものまぶち》が居た。
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寶暦十年の秋、濱町といふ所へ家をうつして、庭を野邊、又は畑につくりて、所もいささかかたへなれば、名を縣居《あがたゐ》といひて住みそめける。九月十三夜に月めでんとて、したしき人々集ひて歌よみけるついでによめる
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こほろぎの鳴やあがたの我宿に月かげ清しとふ人もかな
縣居のちふの露はらかきわけて月見に成つる都人かな
野わきしてあがたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし
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 本居宣長、橘千蔭、平春海もこの縣居へ訪れもしたであらう。向島には文人墨客の居住のあともと思ひもするが、大川端の明治座のさきに、名高き文章の博士が住んでゐたことを、土地の人とても多くは知るまい。眞淵は田安家の招きによつて江戸へ下つたのだ。三派《みつまた》はいまの中洲《なかず》のあたりの名で、月の名所になつてゐる。別れの淵《ふち》といふ名は、海《うみ》の潮《しほ》と川水《かはみづ》の相逢ふ場所からの名で、古くから遊女歌舞伎たち、ここに船をうかべて宴を催し、「江戸雀」には、納凉の地といひ、舟遊びの船に、波のつづみ、風のささら(びん簓を言ひかけてか)芦の葉の笛吹きならしとある。太宰春臺は、
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風靜叉江不起波   輕舟汎々醉過
天遊只在人間外   長嘯高吟雜掉歌
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と賞してゐるが、傾城高尾が舟中で仙臺樣になぶり斬りにされたつるし斬りの傳説もこの三派《みつまた》だ。
 萬治元年、ここにあつた、本ぐわんじ御堂は築地濱に移轉したとあるから、前年の大火事にもその年の正月の大火にも燒失したであらうが、參詣人は多《おほ》かつたことと思はれる。
 新大橋の日本橋區|側《がは》の方をいつてみると、人形町通、および大門通《おほもんどほ》りの舊吉原(元和三年に商賣はじめ)と歌舞伎芝居の勢力を見逃すことも出來ず、魚市場、金座、大商賣、本丸も控えてゐる。ここの吉原も大火に燒けて淺草へ移つたのだ。芝居が淺草へ移つたのはずつと後のことだ。
 流《なが》れにそつて京橋區内にはいると、靈岸島|湊町《みなとちやう》に御船手番所があり、新川《しんかは》三十間堀には酒醤油の問屋と銀座があり、
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