(新吉原)も爪をくはへちりをひねる。
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と「紫《むらさき》の一本《ひともと》」にはあり、天明ごろの「蜘蛛の絲卷」には、
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昔は江戸に飯を賣る店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に奈良茶飯《ならちやめし》の店ありしを、諸人《しよにん》珍らしとてわざわざゆきしよし、近古《きんこ》のさうしに見えたり。しかるに都下《とか》繁昌につれて、追々食店多くなりし中に、明和のころ深川洲崎の料理茶屋は、升屋祝阿彌《ますやしゆくあみ》といふ京都風に傚《なら》ひたるべし、此者夫婦の機を見る才あり、しかも事好、廣座敷、二の間《ま》、三の間《ま》、小座敷、小亭、又は數奇屋|鞠場《まりば》まであり、中庭《なかには》推して知るべし。雲洲《うんしゆう》の隱居|南海殿《なんかいどの》、次男雲川殿、しばしば遊びたまへり。此處殿は、其ころ大名の通人《つうじん》なり。諸家の留守居、府下の富高の振舞、みな升屋定席、その繁昌比すべきなし。
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といつてゐる。洲崎は春は潮干狩、冬の月には千鳥と風流がられた。
江戸人は風流心のないといふことを恥辱としたが、風流といふ字は風と流れだ。隅田川筋を唯一の極樂地とし、郊外散歩と遊蕩と社交をかねた人達に、なんとぴつたりした字であらう。
幕末《ばくまつ》、天保のころになると、江戸繁昌記深川のくだりには、
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大川横川、名所小航の便、施舫客船日夜織る如し
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とある。巽巳藝妓《たつみげいしや》の侠《きやん》な名や、戲作者|爲永春水《ためながしゆんすゐ》述るところの「梅暦《うめごよみ》」の色男丹治郎などは、つい先頃までの若者を羨ましがらせた代物《しろもの》だ。その狹斜が生んだ、江戸末期的代表デカタンが丹治郎だ。
江戸の大火は、明暦後《めいれきご》も度々あつたのに、どうしたことか兩國橋がとりはらはれたことがある。それは橋が出來てから廿二年後のことだつた。しかし、また直に再營された。
芭蕉が、
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名月や門へさしくる潮がしら
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と吟じ、深川に住つてゐたのは元祿のころだつた。三派《みつまた》に新大橋がかかつたとき
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ありがたやいただいてふむ橋の霜
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の句がある。この三派《みつ
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