こそなかつたが、芦や葭《よし》の生《は》へた洲《す》ばかりだと思ふと大違ひの賑はしいところであつたのだ。
橋のかかつた原因は、三年前の、明暦三年正月、本郷丸山からの大火事に、淺草|見附《みつけ》の廣場に家財道具を持出したものが積み重なり、逃げ道をふさいで、十萬七千人といふおびただしい燒死者があつたから、時の政府が急に造橋を思立つたのだつた。次の大火事に構へるところに、いかに江戸に大火がつきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この年の大火難と、大正拾貳年の關東大震災とは、橋をへだて世をへだてて、兩岸に偶然なおなじ出來ごとがあつたのだつた。震災のは本所横網に紀念堂が祀られ、明暦大火のは、諸宗山無縁寺回向院《しよしふざんむえんじゑこうゐん》が建立された。その時の燒死者は舟で運んで、六十間四方に掘り埋めたといふ。
この大火の町《まち》、深川にも、本所にも幕府《ばくふ》の倉庫があり、商庫《しようこ》もあつたことは、深川の河岸藏《かしぐら》には、米十萬七千俵、其他に、豆、麥、酒、油など莫大だつたと、伊勢貞丈《いせていじやう》の隨筆には記載されてゐるといふことである。
橋のかからない前の深川浦《ふかがはうら》――蛤町邊《はまぐりちやうへん》をいふ――は、天正ごろから魚市場があり、造船匠《ふなだくみ》も多く居たといひ、八幡宮は寛永年間には一の鳥居よりうち三四町の間、兩側茶肆、酒肉店軒をならべ、木場《きば》は元祿十年に現在のところへ移つたが、其前《そのまへ》は佐賀町《さがちやう》が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた――附近、幕府の軍艦安宅丸は寛永八年に造られて、ここの藏におさまつてゐたのだ。
橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の繁華は、淺草新吉原をも凌駕したといふ。八幡鐘《はちまんがね》の後朝《きぬぎぬ》は、江戸情史にあんまり有名すぎる位だ。洲崎は今の遊廓が明治になつて本郷根津《ほんごうねづ》から移つてきてから賑はしくなつたのではなく、
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洲崎茶屋十五六ばかりなるみめかたちすぐれたる女を抱へおき、酌をとらせ、小唄をうたはせ、三味線引き、皷を打て、後はいざ踊らんとて、當世流行伊勢おんどう手拍子を合せて踊り、風流なること三谷の遊女
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