木挽町にも正保元年から山村座がある。萬治三年には森田座が出來、見世物が賑はつてゐたといふことで、此處の芝居も、日本橋葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ(これも隅田川流岸)移つたが、それは天保になつてから、例の水野越前の勤儉の時代、御趣旨のときである。芝口《しばぐち》は品川濱につづいて驛路の賑はつたことはまをすまでもなからう。
 淺草と本所とへ、大川を逆流させると、花火とは誠に趣のちがつたものとなるが、向柳原の町會所のことと、藏前の札差のことを並べなければ、大川のもつ富の半分を書き落してしまふことになる。向柳原は淺草見附けのすぐそばで、町會所《まちのくわいしよ》は寛政三年に創立されたのだから、今まで書いてきたものよりはずつと新しいが、松平越中守守信が市中町法を改正して、七分積金及市中窮民救恤を取扱つたところで、籾や、金や、抵當の地所を持ち、後に明治になつてから、道路、橋、及び瓦斯局や養育院創立の資金を支出した資源だといふ。吉田博士の「地名辭書」はこの町會所と基金は、都市自治の故法を見る所以の者で、都人の當に永記すべきものだと述べてゐる。
 會所の規定は、幕府より一萬兩づつ兩度の差加金を得て、會所の基本元資にし、勘定所用達十人に委託して貸付け、その利子で吏員、用達商人、年番肝入り、名主の手當を給し一ヶ年の町費額を定め、前五ヶ年平均町費を差引き、其減額の一分は町内臨時の入費、二分は地主の増收、七分を積立金とし、明治初年、拜領地、拜借地返上のとき會へ抵當になつてゐた地所を下付されたので、千七百五ヶ所の地所をもつてゐたが、八年にはみんな賣却してしまつた。會所の金穀蓄積は、増大したをりには籾四十餘萬石、金は六七十萬兩あつたといふことだ。
 鳥越《とりごへ》の新堀川に天文臺のあつたといふ古跡も私たちは知らなかつた。
 幕府の米倉は、藏前《くらまへ》須賀橋から厩橋まで建つづき、大川に添つて、南北三百二十間、東北百三十間面積三萬六千六百餘歩と記されてゐる。八つの渠があつて、船の出入りを便にした。この渠は今でも知つてゐる人が多くあるであらう、黒い柵があつて水門が一つづつあつた。鬱蒼蟠居《うつさうばんきよ》の古木とある首尾の松は、清元「梅の春」に首尾《しゆび》の松《まつ》が枝《え》竹町のとうたはれてゐるが、この歌詞はたつた一つ例にあげただけで、首尾の松は下谷根岸の時雨の松(お行《ぎやう》の
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