いつもならば、寢苦しがる家の戸が繰りあけられるに近い時刻なのだが、しつぽりと世間は寢しづまつてゐる。曉方《あけがた》になると、せまい家の中《なか》から、寢間着《ねまき》のまま出て來ては、電柱に恁りかかつて、うつらうつら眠る角《かど》の平家《ひらや》の少女も、蚊帳のなかに手足を伸ばしてゐるのだらう。
 空を見てゐる私も、頭はハツキリしてゐるのに、體がぐつたりしてしまつた。適當に病室の空氣を入れかへて、さつぱりして柱にもたれると、氣が遠くなつてゆくやうだつた。
 とろとろしたのだらう。私はハツと驚いた。
 ――忘れちやいやよ――
 と、ばかに元氣な蠻聲に耳を打たれた。窓の下からだ。吃驚りしてカーテンの下から覗くと、トラツクから肥桶《こえをけ》を積みおろしてゐる紫紺《しこん》の海水着を一着《いつちやく》におよんだ、飴色セルロイドぶちの、ロイド眼鏡をかけた近郊の兄《あん》ちやんが、いまや颯爽と肥桶運搬トラツクに跳び乘り、はんどるを握つて、も一度
「わ、すう、れえ、ちやあ、いやあ、よ――」
 と、奇聲をあげる瞬間だつた。流行歌謠だつたのだ。

 不思議なことに、このくひちがひ袋小路は晝間は平凡な
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