夏の夜
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)更《ふ》けて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)春子|畫孃《ぐわぢやう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]
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暗い窓から
地球が吸ひよせる雨――そんなふうな降りだ。
六十年ぶりだといふ暑熱に、苦しみ通した街は、更《ふ》けてからの雷雨に、なにもかもがぐつすりと濡れて、知らずに眠つてゐる人も快げだ。
叩きつける雨の勢ひは、遮《さへぎ》るものにあたつて彈《はじ》きかへされ、白い霧になつてゐる。木の葉は――青桐の廣葉《ひろは》は、獅子がたてがみをふつてゐるやうに、葉を立てて、バリバリと、貪焚《どんらん》に、雨にぶつかつてゐる。
私は、硝子窓を細く細くあけ、口をあけて繁吹《しぶ》きと一緒に涼氣《りやうき》を吸ひ込んだ。十分にといひたいが、長くはあけてゐられないのは次の間に病む人がゐる。
私が、肘かけ窓の柱に凭れて、一人所在なく起きてゐる二階は、細い、長い袋小路《ふくろこうぢ》の中ごろで、丁字路の一方の角《かど》の家なのだが、袋町《ふくろまち》といふ名の通り、この角で行止りに見えるほど、行儀わるくくひちがひになつてゐる。その出つぱつた角の、小はづかしいほどあからさまな家なのだ。
小ブルヂヨア町なのに、その、くひちがひの一角だけが謙遜な平家建ばかりで、斜向ひの角家は、表側に引窓をもつやうな舊式な長屋だ。それを見くだすやうに、こんくりーとの石段を入口に三段ばかりもつて、何處もかもガラス戸で、安普請のくせに傲然と他の二角を見下してゐる、現代式の貸家だつた。
夜の看護《みとり》にあたる私は、明けやすい夜を、ただ、まじまじとして幾日か過ぎてゐた。カーテンの透《す》きから、時折外氣を求めはしたが、露じめりもない乾ききつた夜ばかりつづいてゐたのだつた。
――何時の間にか、雨はあがつた。青い光が硝子戸ごしにカーテンに明暗する。濕氣が病人にあたらない方の小窓へいつて見ると、一氣に夏が押流されてしまつたやうな高い空に、眞新しい月が出てゐて、月の面前を、薄墨雲が、荒々しいほどドンドン走りすぎてゆくのだ。
もうやがて、いつもならば、寢苦しがる家の戸が繰りあけられるに近い時刻なのだが、しつぽりと世間は寢しづまつてゐる。曉方《あけがた》になると、せまい家の中《なか》から、寢間着《ねまき》のまま出て來ては、電柱に恁りかかつて、うつらうつら眠る角《かど》の平家《ひらや》の少女も、蚊帳のなかに手足を伸ばしてゐるのだらう。
空を見てゐる私も、頭はハツキリしてゐるのに、體がぐつたりしてしまつた。適當に病室の空氣を入れかへて、さつぱりして柱にもたれると、氣が遠くなつてゆくやうだつた。
とろとろしたのだらう。私はハツと驚いた。
――忘れちやいやよ――
と、ばかに元氣な蠻聲に耳を打たれた。窓の下からだ。吃驚りしてカーテンの下から覗くと、トラツクから肥桶《こえをけ》を積みおろしてゐる紫紺《しこん》の海水着を一着《いつちやく》におよんだ、飴色セルロイドぶちの、ロイド眼鏡をかけた近郊の兄《あん》ちやんが、いまや颯爽と肥桶運搬トラツクに跳び乘り、はんどるを握つて、も一度
「わ、すう、れえ、ちやあ、いやあ、よ――」
と、奇聲をあげる瞬間だつた。流行歌謠だつたのだ。
不思議なことに、このくひちがひ袋小路は晝間は平凡な、薄い人通りで、夜更けになると、ありのままの、好い人間たちが遠慮なく通つてゆく。
ここへ、そんなことを思ひくらべたと書くのは、誠にをこがましいが、私は幾度か思つた。源氏が六條のほとりの、夕顏の宿《やど》に寢て、はしぢかにきこえてくる、物賣りの聲や、町人の話聲や、夜明けに隣家の下僕が嚔をするのや、唐臼《からうす》の音がとどろいてくるのや、螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《こほろぎ》が枕上ちかく飛んでくるのを見るあたりの、あの心持や、その書きかたが心憎いほどにまざまざと浮びあがつてくるのだつた。
大殿《おほいどの》の奧深くにばかりゐる、あの源氏といふ貴人《あてびと》は、どんなにか、つくろはぬ民《たみ》の聲に心をひかれたことだらう。普通人の生活といふものを、その女のところではじめて知つた、深い、消《け》せない思ひ出があればこそ、果敢《はか》なく果《は》てた、夕顏の宿の女も心にのこつて、いつまでもいつまでも消えなかつたのだ。その住居から來た特殊なうらづけが、他《ほか》の女とは異なつて心を牽くものだつたのだなと、思ひあたると、作者の用意ぶかさ、紫式部の偉さを思ふばかりだつた。
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