私は、大型のマンホールを横つ腹にひかへてゐる二階で、階下《した》の室《へや》まで、自動車が飛込んで來《き》さうなのを、病人のために、地震よりもびくびくした。しかも、この、二間半もすべりつこをしてゐる丁字路の角は、袋小路自動車の引つかへし點なのだ。
 キーツと止ると、パタンと扉を押す音、自動車の客席は、白い強い明りに、パツと切ツ削《そ》いだやうに一部面を見せる。大概、夜更けての客は、若く、逞しく、そして白い顏が傍《かたは》らにある。
 しかし、深夜の聲は、さうベラベラと話しつづけてゆきはしない。聲といひはするものの、私の耳にするのはほんの一言か半言、しかも素通りをしてゆくだけなのだが、わすれちやいやよ氏同樣、中々味な印象を殘してゆくものだ。
 ――あの女を引つ張り拔かれちやつたら、呼びものはねえや。
 これは、若い、パナマ風《ふう》の帽子だが、洋服に似つかはない、教養のない聲、おそろしく大股に歩くのを、浴衣がけの無帽が、こちよこちよ走りつきながら何かいつた。
 ――だからよ。と、洋服は上衣を脱いで、肩にかけると、そこへまた、圓タクがガタリと止つた。四人下りた若者が頭を集めて、小錢を出しあつてゐるのを、運轉手が顏を出して見てゐるので、洋服は默つて行つてしまつた。暫くたつと、
 ――何がなんだと。
 と、威張つて來《く》る亭主がある。道のまんなかを、刺青《ほりもの》のある大肌ぬぎで、浴衣の兩裾を抓み廣げて、日和下駄をカラカラ響かせてゐるが、逆らはずに連れて歸る、アツパツパの丸髷の、がつしりした女房の方が、默つてゐて押のきく態度だ。
 丁字路の、―の方から曲つてくる黒い姿がある。三個で、ひよろひよろ、よろよろと、洋服の野呂松人形のやうだ。××が光つてゐる。互に小楊枝をせせつて、小脇に土産折の新聞包を抱へてゐる。一人が何かいはうとしては、キユツといふだけなのに、あとの二人は、しきりに、こつくりこつくりと頷きつづけてゆく――

     明るい室で

 そこまでは去年の夏の話だが、今年もおなじ時節がめぐつて來た。あの二階で病んでゐた三上於菟吉も、恢復期を我家で靜かに養つてゐて、氣づかつたこの暑熱にも中々強い。私の方が氣が遠くなるやうに暑がり、眠がつてゐる。
 そこへ、春子|畫孃《ぐわぢやう》が來た――註に曰く、畫伯《ぐわはく》では男のやうになるし、畫婆《ぐわば》ではあんまり可哀さうゆゑ、家の、古い人たちがお孃さんと呼ぶので、畫孃《ぐわぢやう》としておく――彼女が三上をしきりに慰め、盛んにしやべるには、
 ――これは本當の話で、大毎《だいまい》にもたしかに出てゐたんだけれど、大阪の人でね、一斗づつお酒を飮む人があつて、それが毎日だからたまには諫められたけれど、なんの糞と、別あつらへの體だと思つてゐると、すこし工合が惡くなつたんで、お醫者さんに見てもらふと、お酒のためぢやなくて、七卷半の、三上山の大|蜈蚣《むかで》ではないが、お腹一ぱいに條虫《さなだむし》の大きな奴が蟠踞してしまつてたんだつて――
 そこまではまじめだが、
 ――なんしても、米の水一斗も、毎日攝取してゐたのだから、條虫の榮養はおどろくばかりよくつて、飮んでやる機械になつた人間の方は弱つちやつたわけで、結局條虫が酒豪だつたつてことになるのね。うン? なに、そりや直ぐに出た。うまい酒が、今日は來ないなと、奴さん大きな口をあけて待つてたから、一日絶酒したあとへ來たやつを、ガブリとやると藥だつたから、すぐ效《き》いちやつて、わけなく手《た》ぐり出されちやつたんだが、條虫が出ちまつたら、その人は、一升も飮めなくなつちやつたんだが――
 畫孃《ぐわぢやう》はカラカラ笑つて
 ――その人は條虫《さなだむし》だが、あんたのは、虫にしたら、なんだらうなあ。
 私はその時、ふと、わに[#「わに」に傍点]のことを思ひだした。去年大石千代子が、サンポーロから歸つて來た時から、鰐をほしくないかといつてゐたがこんどフイリツピンヘ行くので、鰐をどうしようといふので、春子の畫室へ吊しておいてもらつたらいいといつたことを、傳へておかうと、
 ――さうさう、春ちやん、鰐を二ツあづかつておくんなさい。
 春子|畫孃《ぐわぢやう》は眼を輝かして、
 ――一匹くれない? 小さい奴は柔らかいからハンドバツグにしても好いし、もすこし大きければ、靴と鞄だ。
 と慾ばつたことをいつてゐる。それを聞くと私はクツクツと笑つた。
 ――貰つて來た大石さんも、小さければ置物になると思つたのだつて。日本人で、とても鰐を釣るのがうまいと自慢する人があつたので釣るといふから、ちつさいのに違ひないと、ひとり合點で、お土産に釣つて下さいと頼んでおいたらば、いざ出帆といふ時に、汽船へ擔ぎこんで來たんだつていふの。
 ――え、擔ぎ込んで來たつて?
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