夏の夜
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)更《ふ》けて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)春子|畫孃《ぐわぢやう》

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(例)※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]
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     暗い窓から

 地球が吸ひよせる雨――そんなふうな降りだ。
 六十年ぶりだといふ暑熱に、苦しみ通した街は、更《ふ》けてからの雷雨に、なにもかもがぐつすりと濡れて、知らずに眠つてゐる人も快げだ。
 叩きつける雨の勢ひは、遮《さへぎ》るものにあたつて彈《はじ》きかへされ、白い霧になつてゐる。木の葉は――青桐の廣葉《ひろは》は、獅子がたてがみをふつてゐるやうに、葉を立てて、バリバリと、貪焚《どんらん》に、雨にぶつかつてゐる。
 私は、硝子窓を細く細くあけ、口をあけて繁吹《しぶ》きと一緒に涼氣《りやうき》を吸ひ込んだ。十分にといひたいが、長くはあけてゐられないのは次の間に病む人がゐる。
 私が、肘かけ窓の柱に凭れて、一人所在なく起きてゐる二階は、細い、長い袋小路《ふくろこうぢ》の中ごろで、丁字路の一方の角《かど》の家なのだが、袋町《ふくろまち》といふ名の通り、この角で行止りに見えるほど、行儀わるくくひちがひになつてゐる。その出つぱつた角の、小はづかしいほどあからさまな家なのだ。
 小ブルヂヨア町なのに、その、くひちがひの一角だけが謙遜な平家建ばかりで、斜向ひの角家は、表側に引窓をもつやうな舊式な長屋だ。それを見くだすやうに、こんくりーとの石段を入口に三段ばかりもつて、何處もかもガラス戸で、安普請のくせに傲然と他の二角を見下してゐる、現代式の貸家だつた。
 夜の看護《みとり》にあたる私は、明けやすい夜を、ただ、まじまじとして幾日か過ぎてゐた。カーテンの透《す》きから、時折外氣を求めはしたが、露じめりもない乾ききつた夜ばかりつづいてゐたのだつた。
 ――何時の間にか、雨はあがつた。青い光が硝子戸ごしにカーテンに明暗する。濕氣が病人にあたらない方の小窓へいつて見ると、一氣に夏が押流されてしまつたやうな高い空に、眞新しい月が出てゐて、月の面前を、薄墨雲が、荒々しいほどドンドン走りすぎてゆくのだ。
 もうやがて、
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