を着た女の感じを、魅惑的のものとして理想するのと同樣に、時代の好みが、ひつかけ[#「ひつかけ」に傍点]から遠ざかつてゐるので、意氣好みの女《ひと》からさへあまり注意されないからであらう。藝妓屋の晝間でも、黒繻子の片側のひつかけ[#「ひつかけ」に傍点]よりも、その多くは、細い帶をキチンと結んでゐるやうになつてゐる。
 菊次郎も晩年、六代目の相手で世話ものを得意としたゆゑ、ひつかけ[#「ひつかけ」に傍点]は下手ではなかつたが、それでもどこか世帶じみた結びかたであつた。

 帶の結びかたと半襟の合せかたは、せまいわたしの目の前だけでも、かなり移りかはりを示してゐる。舞臺の女《ひと》が、老若、時代にかまはず、無神經に結び目を脊中にくつつけてゐるのを見ると厭になることがある。よく、さほどの役柄でないからとでもおもふ怠りからでもあらうが、仕出しの老婆《おばあさん》が、振りのぶら/\する、袖の長い着物を着てすましてゐたりするが、往來でも無自覺にめかしてゐる女《ひと》が多く目につく。身にそぐはぬことを知らぬ女よりも、身にそぐふといふことが、心の目に感じられぬはうが多いのではないかと思ふことさへある。やつて見なければ分らないといふ失敗を、繰返してばかりゐるやうな扮裝《おつくり》を多く見かける。
 生れてから以來、毎日身につけてゐる着物にあべこべに着られてゐるのさへも見かける。
 夫に見せてよい姿を、白晝《ひるま》電車の中へ出されては困る。カンレイ紗のゆかたの、腰から下は眞赤で、上は白い小さな肌着の透いて見えるので平氣なやうな流行は、おなじ女性《をんな》には居たたまれない氣持がする。着物が透いてゐても却つて暑苦しい。稍それと趣の似たものに、好みの長襦袢の上へ薄羅《うすもの》を着たのは、用ひかたによつて面白いが、それへ羽織を着られると、すつかり嫌なものになつてしまふ。寧ろ、あれは長襦袢でなく、薄羅の下へは、もう一枚、とりあはせのよいものを重ねた方が好ましく[#「好ましく」は底本では「好ましい」]思ふ。長襦袢は白無地なり薄色なり、ずつと地質が輕く都合のよい手輕なものにする事が出來る。

 あたしの求めてゐる水ぎはだつた姿、すつきりしたおつくりをこのごろでは洋裝の女から多く與へられてゐる。簡單素朴な、ことそがれるだけそいだ[#「そいだ」は底本では「そいた」]中に、體全體の調和が美を助け、波動
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