ぶきがこないだけでもおしのぎになれませう。」
 と止めた。さうはいつたが、自分は家の中にはいれなかつたほど、その女《ひと》が凄く美しかつたのだつた。黒い透屋《すきや》の着物、白はかたの帶、水色のえりうら[#「えりうら」に傍点]が見えてゐたが、無論素足で――
「一ツ目の辨天樣へおまゐりに來て――」
 と女はまた笑つた。家の中を見廻して、歸る時に懷紙《くわいし》にくるんで金をおいていつたが、あんな凄い綺麗な女はないと、彼は老年になつても繰りかへしてゐた。

 下町の好みは、髮をザングリと油でかためずに、ものものしく結ひあげない。櫛の齒も幾度もいれず、浴衣《ゆかた》の似合ふとりなりである。それだけに紋附きにはむかない。どうしても平民ごのみである。
 着物が地味だから半襟と前かけの紐がきはだつた。朱塗りの櫛が効果のあるやうに、簪もあんまり大きいのは※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]さない。いてふがへしの黒髮が、黒じゆすの着物の襟に流れていつて、秩父絹の裾裏の褄さきに走る。綺麗に洗つた足の指が、青竹色の吾妻下駄の鼻緒に揃つて、小砂利を輕く蹴かへす――肩には日
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