と、涙もろいこと――それが僞《つく》りものでないだけに缺點だともいへる。だから、女性《をんな》を食用|鷄肉《かしわ》のやうにしか考へることを知らないあはれな男どもには、ちと筋がありすぎて――さうはいふが、娼婦性がすけないだけ、純なる彼女である、男思ひである。頭がないといつたが無智なのではない。生活共同戰線へたつときには、たのもしい連合《つれあひ》である。
「サンデー」から私へ求めたのは、西鶴が街を通る美女を書きのこしたやうに、あたしの眼に殘る下町娘のよさ[#「よさ」に傍点]を、話のやうに書けといふのであつた。それはもとより、江戸時代から轉化してきた明治中期のでよいのであらうが、女の子の眼に殘つたのは、中年の文豪の見た――着物などは通して見てしまつた、個々の女の、肌のよさ[#「よさ」に傍点]とは違ふ。
現今《いま》の婦人《ひと》は、かなり個性に生きてゐるといふが、そのくせ流行《はや》りものに安くコビリつく。その點、古い下町の女はかなり自分に生きてゐた。勿論あのヨボ/\の歌右衞門が、福助といふ人氣|女形《おやま》俳優であつたころ、なにもかもが彼の紋ぢらしでなければ賣れなかつたといふこ
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