遠藤(岩野)清子
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)華《はな》やか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)遠藤|清子《きよこ》
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一
それは、華《はな》やかな日がさして、瞞《だま》されたような暖《あった》かい日だった。
遠藤清子の墓石《おはか》の建ったお寺は、谷中《やなか》の五重塔《ごじゅうのとう》を右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。
「これは、途中で降られそうで――」
と、自動車《くるま》の運転手は、前の硝子《ガラス》から、行く手の空を覗《のぞ》いて言った。
黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しい異《ちが》いの雲行きだ。
赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大雨《たいう》には、神田《かんだ》へかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪宕《ごうとう》なのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。
私はすっかり湿っぽく、寒っぽくなってしまって、やがてお寺へ着いたが、そこでは、そんなに降らなかったのか、午前中からの暖かい日ざしに、何処《どこ》もかも明け放したままになって、火鉢《ひばち》だけが、火がつぎそえられてあった。
その日のお施主《せしゅ》側は、以前《もと》の青鞜社《せいとうしゃ》の同人たちだった。平塚《ひらつか》らいてう、荒木郁子《あらきいくこ》という人たちが専ら肝入《きもい》り役《やく》をつとめていた。死後、いつまでも、お墓がなかった遠藤|清子《きよこ》のために、お友達たちがそれを為《な》した日の、供養《くよう》のあつまりだった。
会計報告が、つつましやかに、秘々《ひそひそ》と示された。ずっと一隅《いちぐう》によって、白髪《しらが》の、羽織|袴《はかま》の角《かく》ばった感じの老人と、その他《ほか》にも一、二の洋服の男《ひと》がいたので、その人たちへの遠慮で、後《あと》のことなどの相談をした。会費と、後々《のちのち》の影向料《えこうりょう》とがあつめられたりした。
やがて、本堂へ案内された。打|揃《そろ》って座についたが、本堂は硝子障子が多いので、書院よりは明るいが、その冷《ひえ》はひどかった。読経《どきょう》もすこしも有難みを誘わなかったが、私は、眼の前の畳の粗《あら》い目をみつめているうちに、そのあたりの空間へ、白光りの、炎とも、湯気《ゆげ》とも、線光とも、なんとも形容の出来ない妙なものが、チラチラとしてきた。
――遠藤清子さんは悦《よろこ》んでいるだろう。
たしかにそうも思いはしたが、それよりも、急に、わたしの胸を衝《つ》いてきたものがある。廿五年の歳月は、こんなにもみんなを老《お》わしたかと――
誰の頭髪《あたま》にも、みんな白髪《しらが》の一本や二本――もっとあるであろう。その面上にも、細かき、荒き、皺《しわ》が見える。
ひとり、ひとりが、焼香に立った。
悪寒《おかん》が、ぞっと、背筋《せすじ》をはしると、あたしはがくがく寒がった。雨のなかを通りぬけて来た時からの異状が、その時になって現われたのだが、すぐ後《うしろ》にいた岡田八千代《おかだやちよ》さんがびっくりして、
「はやく、火鉢のある方へ行かなければ。」
と案じてくれた。生田花世《いくたはなよ》さんも、外套《がいとう》をもって来ましょうかといってくれた。
みんなも気がついて、向うへ行っていよとすすめる。焼香もすましているので、あたしは親切な友達たちのいう言葉にしたがった。
外套にくるまって、火鉢に噛《かじ》りついていると、どんなふうかと案じて来てくれながら、そうではないような様子に、
「おお寒い寒い。」
と、自分も逃げて来たように言って、八千代さんはそこらの障子を閉《し》めてくれて傍《そば》へ来た。
「どう? お寺で風邪《かぜ》なんぞひいたらいけないから。」
あたしは大丈夫と言いながら丸くなって、友達の顔も見なかった。見たら、涙が出そうでしかたがない。
みんな、たいした苦労だ――
と、そればかりを噛《か》むように思った。みんな、跣足《はだし》で火を踏んだような人たちだ。今日《こんにち》の若人《わこうど》たちの眼から見たらば、灰か、炭のように、黒っぽけて見えもするであろうが、みんな火のように燃えていて、みな、それぞれ、その一人々々が、苦闘して、今日の、若き女人《ひと》たちが達しるというより、その出発点とするところまでの茨《いばら》の道を切り開き、築きあげて来たのだ。いたずらに増《ふ》えた髪の霜《しも》でもなく、欠伸《あくび》をしてつくった小皺《こじわ》でもない。
――その間に、こんなにも、こんなにも、女人《おんな》の出る道は進展した――
前の夜《よ》、あまり生々《いきいき》したグループのなかで、何時《いつ》までもいつまでも話しこんでいたあたしは、あんまり異《ちが》った仲間のなかにいて、たしかに戸まどいもしているのだった。年月などというものを、さほどに意識しない日頃であって、何時《いつ》も若い友達と一緒になっていられる幸福のために、かえって、死《しに》もの狂いであった誰彼《たれかれ》なしの過去に、ひたと、面《おもて》をこすりつけられたような思いだった。
表面《おもて》に、溌剌《はつらつ》と見えるからといって、青春者《わかいひとたち》が、やはり世の中へたつのは、多少とも死もの狂いであるのと同様、先覚者《さきのひとたち》も決して休止状態でいるのではない。おなじ時代を歩んでいるのではあるが、まあ、なんと、今日《いま》から見れば、そんな些事《こと》を――といわれるほどの、何もかもの試練にさらされて来た人たちだろう――
私は、神近市子《かみちかいちこ》さんの横顔を眺め、舞踊家林きん子になった、日向《ひなた》さんに、この人だけは面影《おもかげ》のかわらない美しい丸髷《まるまげ》を見た。
「清《きよ》も、よろこんでおりましょう。」
と、もとの座についた、白髪の老人は、重い口調で挨拶《あいさつ》をしていられる。
それをきくと、周囲の人がわやわやとして、
「長い間、お心が解けなかったそうですが、いま、お兄さんがそう仰しゃったので、これで、仏さまとの仲も、解けて――」
と、いうような意味の言葉を、一言《ひとこと》ずつ、綴《つづ》るように言った。とはいえ、解けあわぬ兄妹《きょうだい》でも、遺骨は墓地に納めさせてくれてあったのを、その人々も知っている。墓を建てたのを、差出たことをしたと思われないようにとも、友達たちは老人をいたわるようにいった。
「どういたしまして、よく、あれの心を知ってやってくださる、あなた方《がた》に、こうして頂いた事は、よい友達をもった、彼女《あれ》の名誉で――」
と、兄という人は思慮深くいうのだった。
「あなた方は、彼女《あれ》のことばかりお聞きなさってでしょうが――」
と、老人は、感慨を籠《こ》めて、わたくしも困りましたと言っていた。
そんな事も、よく聞きたいが、老人とわたしの座とは、かなり間がへだたっている。それに、洋服の男子《ひと》が、その老人の方へむかって坐って、何か話しかけているので、老人のいうことは、半分もきこえてこなかった。
「彼女《あれ》も、さぞ、わからない兄だと思ったでございましょうが、わたくしも困りました。わたくしの眼の悪くなったのも――」
と、黄白《きじろ》い四角い顔の、腫《は》れあがったような眼瞼《まぶた》に掌《てのひら》をかぶせて、
「ただいまで申す、殴《なぐ》りこみのようなことを、彼女《あれ》がいたしましたので――」
新旧思想の衝突――さまざまな家族苦難の一節の、そんなことを話すように、口がほぐれて来たのは、記念の写真をとったり、お墓へ参ったりしたあと、谷中《やなか》名物の芋阪《いもざか》の羽二重団子《はぶたえだんご》などを食べだしてからだった。
「それはどんな訳で?」
と、きいたものがある。
「荷物でしたかなんだか、なんでもわたせと、男どもを連れて押かけてくるというので、それならばと、こちらでも、用心して人もいたのですが――戸障子をたたき破《こわ》すような騒ぎで、その時、乱暴人《あばれもの》に眼を打たれました。」
視力も失《なく》したとでもいったのか、まあね、という嘆息もまじってきこえた。
「あ、あすこの――あの時の方ですか?」
後向きの男の人の一人が、そんなふうに言っている。も一人の人は、遠藤氏といって清子さんとは同姓であって、死ぬきわまで一緒に暮していた人だということを、誰だったか、ささやいていた。
雑誌『青鞜《せいとう》』や、その他の書籍がひろげられて、なき人の書いたものが載っているのを、人々は見廻した。しめやかではあるが、わやわやしたなかなので、気分も悪いわたしは、近間《ちかま》で話している、ほんの一つ二つの逸話しか耳に残らなかった。
「ごく若い時には日本髷《にほんがみ》がすきでね。それも、銀杏《いちょう》がえしに切《きれ》をかけたり、花櫛《はなぐし》がすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。」
「『二十世紀婦人』の記者でしたろう、その時分は。」
「たしか、東洋学生会の仲間で、印度人に、英語を教えていたでしょう。」
人々の眼には、ずっと若い時分の、遠藤清子さんが話されていた。わたしの眼には、それよりずっと後《あと》の、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頬《ほお》のおちた、鶴見《つるみ》のわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願《ほつがん》だった。
郁子さんは、玉茗館《ぎょくめいかん》という旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段《おもてばしご》の方へ逃げた。郁子さんは、裏階段《うらかいだん》へ逃《のが》れた。表階段《おもてばしご》の方へ駈《か》けていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は――民雄《たみお》は、岩野泡鳴《いわのほうめい》氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
泡鳴氏には、他《ほか》にも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんより後《のち》の妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不幸《ふしあわせ》な子だ。
四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓表《ぼひょう》ばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によって立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹那《せつな》哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のためにもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、尤《もっと》も簡単でよく述べられているから、それを記《しる》しておこう。
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岩野泡鳴本名|美衛《よしえ》、明治六年一月二十日|淡路国《あわじのくに》洲本《すもと》に生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾来《じらい》墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩歌《しいか》に小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊饒《ほうじょう》と、着想の奇抜は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良な
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