それには、うんといわなかった清子も、稽古《けいこ》を見にいってくると、すっかり厭《いや》になって断ってしまった。
*
いよいよ泡鳴が大阪へ出立《しゅったつ》する二日前の、三月廿六日の日記には、
――私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれている――
と清子は書いている。二人で饑《う》えても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんとに憂世《うきよ》ではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼方《かなた》の難波《なにわ》の宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争闘《あらそい》つづける泡鳴を恋い慕った。蛙《かえる》の声が気のせいか、オオサカオオサカときこえるともいうようになっていた。
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君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵《しゅんしょう》の夢
君住むは西方《せいほう》百里|飛鳥《とぶとり》の、翼うらやみ大空を見る
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と、だらしがないほど彼女は恋しさを告白するようになった。
とうとう、婆やを連れて、大阪へ、家財道具そっくり持ってゆく日が来た。
*
大阪郊外池田山の麓《ふもと》に家居《かきょ》した彼女は、汽車に乗っただけで、郊外から郊外へ移って来たほど気が軽かった。
青菜に靄《もや》のかかる宵は、青葉の匂いのはげしいころだった。おなじような郊外の住家《すみか》というが、二階から六甲山も眺められる池田での生活には、彼女はガラリと様子が一変してしまった。主人《あるじ》が、今朝《けさ》のお出かけには御機嫌がよかったのに、お帰りになってから悪い、私がお出むかえしなかったからだろうか、なんぞというようになった。だが、それは表面だけで、四十四年五月十一日の日記には、
――私は結婚生活に経験がない。始めて男性に心身を許してしまった今日《こんにち》、私の結婚生活に対する幻影は早くもさめてしまった。古人が結婚は恋愛の墓だといっている。私は、恋人の努力によって、内外一致した恋愛生活が、真の結婚生活だと信じていた。結婚を葬るのは、当事者の努力が足りないためだと思っていた。しかし、これは私一人のイリュージョンかもしれない――
と、何処《どこ》やらに絶望を噛《か》みながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行李《こうり》の底へ押込めておいた、五年間もつづけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶器《せともの》の火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せると、
「妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜更《よふ》けに。」
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
「なにも、いやいやいてもらいたくない。」
というようになった。
*
前号に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方|訊《き》きあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長曾部《ながそべ》菊子といわれたが、芸術まず生活の実行からと、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣金《つりがね》マントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった泡鳴氏がお得意の面《おも》で、
「清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。」
と、細君のお腹《なか》をさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京|巣鴨宮仲《すがもみやなか》に住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
「おれはそうは思わない。いつ喧嘩《けんか》して帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝《かんばらふさえ》(後《のち》の夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来《でき》ていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放縦《ほうしょう》生活を改めたという、家庭の美事光明《びじこうみょう》が、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂奮《こうふん》した。謀反者《むほんしゃ》の間にいることがたまらなかった。
蒲原房枝は彼女にこういった。
「こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。」
それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
千仭《せんじん》の底へつきおとされた気持ち――清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
別居か離別か、その二ツに惑った彼女は、青鞜社《せいとうしゃ》に平塚|明子《はるこ》さんをたずねた。
別居する決心がついた。収入の三分の二を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
あんまり事件《こと》が突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
「さようなら。」
といって出ていってしまった
白々《しらじら》しい寂寞《せきばく》!
彼女はこんなことをいったことがある。
「あたしは芝で生れて神田《かんだ》で育って、綾瀬《あやせ》(隅田川《すみだがわ》上流)の水郷《すいごう》に、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家《うち》は没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の――八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
*
その後の清子さんは、切花《きりばな》や、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡《なくな》った。
暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送ってやると、
「まあ、あの人も、仕事のことで、いま、お金がなくって困っているだろうに、送ってくれるなんて、少しでも、これは実に尊いお金だ。」
と、悦んだが、その時分には死を充分覚悟していて、泡鳴氏との遺児を、友達に頼みたいということを、遺言の第一に書いた。
悲しい結びつきであった。泡鳴氏にしても、大正四年四月、「新体詩作法」と、「新体詩史」を合したものを提出して、博士論文を要求していたのだが、審議に上《のぼ》っていた時に、清子さんと蒲原房枝とをめぐる事件の、世評がやかましくなったので、殆《ほとん》ど通過する間際《まぎわ》になって否定されたということだ。
廿八歳まで、霊肉一致の、恋愛至上主義に生きぬこうとした意志の強い女性の、ほんとにこれは、断片を語るにすぎないが、彼女が、泡鳴氏との同居に、頑固《かたくな》なほど身を守っていた明治四十三年は、幸徳《こうとく》事件があったりした時だった。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人公論」
1938(昭和13)年2〜3月
初出:「婦人公論」
1938(昭和13)年2〜3月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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