といって出ていってしまった
 白々《しらじら》しい寂寞《せきばく》!
 彼女はこんなことをいったことがある。
「あたしは芝で生れて神田《かんだ》で育って、綾瀬《あやせ》(隅田川《すみだがわ》上流)の水郷《すいごう》に、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家《うち》は没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の――八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
       *
 その後の清子さんは、切花《きりばな》や、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
 泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡《なくな》った。
 暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送
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