男は、もう、すっかり醒《さ》めてしまっているのに、
「あなたは、泡鳴氏と、もう結婚したのですか。」
と、この同棲の新居へ訪《たず》ねて来て言った。
「どうとも、あなたの御想像にまかせます。」
と答えただけで、並んで月を見た。泡鳴もそれを見ていた。あとで嫌味《いやみ》をいったが、十月の冬の月は、皎々《しろじろ》と冴《さ》え渡っていた。
 お互の胸は、月と我々との距離だけの隔りを持っていると、その時はっきりそう思った。その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行李《こうり》の底に押籠《おしこ》んでしまった。
 ――だから、言って見れば、泡鳴に、霊の恋が芽生《めば》えさえすれば好《い》いのだ――
 けれど、それは、半獣主義を標榜する人に無理はわかっている。といって、それがそうならないからこそ、もろともに悩み呻吟《うめ》くのではないか――
 彼女は、窓の外の、軒端《のきば》で笑っているような、雀《すずめ》の朝の声をきくまいとした。蒲団《ふとん》をひきかぶるようにして、外は、霜柱が鋭いことであろうと思った。なにもかもが、きびしすぎると感じながら、自分の主張は曲げられないと、キッシリと眼を閉じていた。見かけだけは仲の好《い》い、新婚夫婦に見えて、霊肉合致の域にいたるまで、触れさせまいとする闘いに、互に心肉の鎬《しのぎ》を削っている、妙な生活!
 去年の今ごろ(明治四十一年)は、日本婦人の権利擁護のために、治安警察第五条解禁の運動に朝から晩まで駈《か》け廻っていたものだが、今年は肉と霊との恋愛合戦に、血みどろの戦いだ!
 彼女は、首を縮《すく》めて、ふとんをかぶると、大丸髷《おおまるまげ》が枕にひっかかった。
       *
 許す許さぬの解決はつかないままだが、日が立つにつけ、この同棲生活の厳寒も、いくらかゆるんで来た。いらいらした霜柱も解けかけて来た。杉の木の二、三本あった庭には、赤坂からもって来た、乙女椿《おとめつばき》や、紅梅や、海棠《かいどう》などが、咲いたり、蕾《つぼみ》が膨《ふくら》んだりした。清子の大好きな草花のさまざまな種類が、植えられたり種を播《ま》かれたりした。
「まあ、あなたが、そんな事して下さるようになったわね。」
と清子がいうように、泡鳴氏が土をいじっていることがある。文壇の交友たちの話をきくことも多くなって、清子も小説を書こうと思いたったりしはじめた。
 一ツ石鹸箱《シャボンばこ》をもって、連立《つれだ》って洗湯《おゆ》にゆくことも、この二人にはめずらしくはなかった。男湯の方で、水野|葉舟《ようしゅう》や戸川|秋骨《しゅうこつ》氏と大声で話合っているのを、清子は女湯の浴槽《ゆぶね》につかってのどかにきいていることもあった。今日も、一足おくれて帰ってくると、家《うち》のなかで女の声がしていた。
「いま現金がないから、そのうち金のある時に返すといっているのに。肯《き》かないのか。」
と、言っていたが、
「さあ、これが証文だ。」
 何か書いて渡している様子だった。帰してしまうと、六畳の部屋へ顔を差入れて、化粧をしている清子の鏡のなかへ、自分の顔をうつしこんだ泡鳴は、
「彼女《あれ》だよ、放浪(小説)のモデルの女は。缶詰事業のとき、彼女《あいつ》の着物も質に入れてしまったので、返してくれといって来たのだ。金がなければ、証文にしろといって、持っていった。」
 清子は、今帰っていった女のことなどは、あんまり気にならなかった。鏡にむかって、鬢《びん》を掛きながら、思いだしていたのは、いつぞや、此処へ来て間もなく、やっぱりお湯から帰ってくると、主客の問答を、襖越《ふすまご》しにきいた。
「まだか?」
「まだだ。」
 その時の客は、正宗白鳥《まさむねはくちょう》氏だったのだ。泡鳴氏の友達の方には、もっと手厳しいのがあって、ハガキで、そんなことをしていて、清子に男が出来たらどうするとか、彼女は生理的不具者なので、よんどころなくそうしているのだろうなぞといってきているのもあるのだった。
 清子には、そんなことはなんでもない非難だと思えた。それよりも辛抱のならない女客があることが厭《いや》だった。それは、泡鳴氏の先妻|幸子《さちこ》だ。三年前から別居しているという彼女は、冷やかな調子で、
「私は、貰《もら》うものさえ貰えば好《い》いんですからね。どうせ、この夫《ひと》とは気が合わないんだから、この夫《ひと》はこの夫《ひと》で、勝手なことをなさるがいいんです。あなたとは、気があっているそうだから結構でさあね。」
 永遠性を誓えない邪恋を押退《おしの》け純一無二のものでなければならないと、賤《いや》しむべき肉の恋をこばんで、苦しむ身に投げつける言葉のそれは、まだ忍耐《がま
前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング