ん》するとしても、名ばかりの夫妻とはいえ、夫が厳冬の夜《よ》も二時三時まで書いていることを、この女は知らないのだろうか、文学家の朝夕《ちょうせき》は、思ったより悲惨なものであるのに、その金を催促に来て、いう言葉がそれなのだ。
――あの、賤しい女に、何《なん》で、わたしは見下げられるのだ――と、ふと、そのことを、いま、帰っていった、襖《ふすま》の向うの女の声から、連想を呼び出されていたところだったのだ。
「なにをぼんやりしているのさ。」
泡鳴氏は、はりあいなさそうにいった。
「ふん、これね、なんだか冷たい恋のようで、わたしたちに似ているから。」
と、清子は心にもないことをいって、はぐらかして、生けてあった連翹《れんぎょう》の黄色い花を指さしたが、鏡の中に、陰気くさい、気むずかしい顔をしている自分を見出すと、彼女は、またしても家のなかの空気を暗くしてしまう自分を、どうしようもなくなって、気をかえに散歩にでも一緒に行こうと、立上ると、八畳の部屋を覗《のぞ》いた。すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶々《もんもん》としている憂愁を見てとった。
*
「僕はもう諦《あきら》める。僕にそういう心を起させるものを切りすてる。泣くには及ばない。」
せせぐり泣く枕許《まくらもと》で泡鳴はそういった。そんな事をさせてはならないと、二十八歳の処女は泣いたのだ。とはいえ、二ツの思想が同棲している以上、この争闘《あらそい》はくりかえされなければならない。
彼女は、どうかすると早起《はやおき》をして、台所に出たり、部屋の大掃除をしたり、菜漬《なづけ》をつけたりする。と思うと、戸山が原へ、銀のような色の月光を浴びにいったりする。「別れたる妻に送る手紙」という小説を書いた、近松秋江《ちかまつしゅうこう》氏に同情して、この人のロストラブの哀史を、同情をもって読んでみようと思うといったりしていた。
立場の違う苦しみに、互に、弄《なぶ》り殺しのような日をおくりながら、二人の相愛の気持ちは日々に深まっていったのだった。日記をつけるのにも、岩野氏とか、泡鳴氏とか書いたのが、「君」となったが、三月ばかりするうちに、主人《あるじ》という字になった。
「あの女《ひと》って、随分失礼な女《ひと》だ。不作法ったってなんだって、教養のある婦人《ひと》だというのに、いつだって案内もなしで、いきなり上りこんでくるなんて我慢が出来ない。」
彼女は先妻の幸子が、いつもの癖で、ずかずか上り込んで来て、例《いつも》のくせで、朝、起きはぐれているところを、荒い足音で、わざと目をさまさせられたのを憤《いきどお》った。
中学教師をしていた時代の泡鳴と、女学校教師だった幸子とは、泡鳴が樺太《からふと》へ蟹の事業をはじめる前に別れたのだが、清子は友人同棲をはじめてからも、幸子に同情して、泡鳴に復帰するようにさえ勧めたこともある。米や炭を送って、幸子の生活をたすけもした。それなのに、何時《いつ》も来ると、自分が退《の》いてやっているのだぞといわないばかりの仕打ちに、清子は腹を立てた。
だが、そんな不愉快な日ばかりもなかったのは、若葉の道を蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》をさしかけて、連れ立って入湯《おゆ》にゆくような、気楽さも楽しんでいる。
――主人《あるじ》の体量、万年湯ではかったら、十四貫三百五十|目《め》あったといって、よろこんでいらっしゃったと、日記につけたりしている。
暑い晩に、泡鳴は半裸体で原稿を書き、彼女は傍《かたわら》でルビを振っている。と、青蛙《あおがえる》が飛び込んで来た。泡鳴は団扇《うちわ》で追いまわし、清子も手伝った。灯《ひ》によって来た馬追虫《うまおい》もいる、こおろぎもいる、おけらもいるという騒ぎに、仔犬《こいぬ》もはしゃいで玄関から上ってくれば、飼猫《かいねこ》も出て来た。虫のとりあいをして、猫がこおろぎを食べると、犬がくやしがってワンワン吠《ほ》えたてた。
「まるで動物園だ。」
と泡鳴が笑っているという図もあったりした。家庭生活にそこまで、犬も猫もきらいな泡鳴をひっぱりこみ、浸らせた清子の、一筋でない信念の強さがそれでも知れるが、そればかりではなかった。泡鳴は、そうした和《なご》やかな団欒《だんらん》には、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんなことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
――進んでノラともなれず、退いて半獣主義に同化することも出来ない。恋と思想と一致しない。私たちは常に絶えざる苦悶《くもん》と懊悩《おうのう》とを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっている――
それは偽りのない彼女の告白だ。
泡鳴は、金が出来たら広い場処に移って、鍵《かぎ》のかか
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