の霜に冴《さ》えるラッパの響きに、眠りついたばかりの床《とこ》のなかで、清子はうっすら眼をさました。
歩兵一|聯隊《れんたい》の起床ラッパを、赤坂檜町の旧居で聴いている錯覚をおこしていたが、近くで猫が、咽喉《のど》を鳴らしている気もした。
はっきりしない頭のどこかで、猫は近所へあずけて来たはずだがと、預けたとはいえ、空家《あきや》へ残して来た、黒と灰色との斑《まだら》の毛並が、老人《としより》のゴマシオ頭のように小汚《こぎた》ならしくなってしまっていた、老猫《おいねこ》のことがうかんだ。
――あれは、一《ひと》ツ木《ぎ》の縁日へいった時、米屋の横の、溝《どぶ》っぷちに捨てられていたのを拾ってやったのだが、また宿なしになってしまやしないかしら。
泡鳴氏が汚ながるし、厭《きら》いなので、捨てて来はしたが――
と、そう思うと、引越しのとき、山のように積んだ荷車の、荷物の上へせっかく捨てた古柄杓《ふるひしゃく》を、泡鳴氏は拾って載せた――あんなことをしなければ好いのにと、見ないふりをして眼を反《そ》らしたが、冬の薄ら陽《び》が、かたむきかけたのを痩《や》せた背に受けて、古びしゃくを拾いあげて荷物の上にさしこんでいる、厭《いや》だった姿が、まぶたの上にはっきりとした。
「あ、赤坂の旧家《うち》じゃない。」
パッチリと眼がさめると、猫だと思ったのは、隣室《となり》から、男のいびきがきこえていたのだった。
ラッパの音は、戸山学校からきこえてくるのだった。大久保の新居に来ての朝夕、馴染《なじみ》のない場処《ところ》でありながら、赤坂に住んだ五年間と変らないのは、陸軍のラッパの、音をきくことだけだった。
――もう、やがて、二十日ぢかくにもなる――
目がさめさえすれば、妙にしょんぼりと、越して来た日のことが、目に浮ぶのが、この頃のならわしになっていて、十二月九日に泡鳴氏と、此処《ここ》に同棲《どうせい》しはじめてからのことが、またしても繰返して思いだされるのだった。荷物を出してから、二人して来たこの家に、家主《やぬし》のところから提燈《ちょうちん》を借りて来て、二人は相対していた。冷々《ひえびえ》した夕闇《ゆうやみ》のなかで、提燈を抱《かか》えるようにして暖まったり、莨《タバコ》を吸ったりして荷物のくるのを待った。
お蕎麦《そば》で夕食をすませると、もう荷物も着くだろうと、家《うち》のなかを見廻して清子は言った。
「とにかく、同棲しても、まだ友人関係なのですから、あたしの寝間《ねま》は、此処を茶の間にして、そっちの六畳ときめますから。」
「では、僕は、八畳の方か。あすこ、客間だね。」
と泡鳴氏はいった。二人は寒い、なんにもまだ置いてない室《へや》に眼をやった――その寝間から、いびきは洩《も》れてくるのだった。
「あんなに、泣いたり、怒ったりしても、よく寝られるものだ。」
清子は毎夜のように持ちあがる、二人の間の暗闘――許す、許さぬの絡《から》みあいを思った。俺《おれ》は腹を切るといって怒るかと思えば、これほど熱愛を捧《ささ》げる誠意を酌《く》まないのかと泣く男が、枕《まくら》につくと、ぐっすりと寝てしまうのを、不眠症になってしまって、朝まで眠れない自分とを思いくらべた。
――けれど、だんだん私は岩野を好きになっている。
と思わないわけにはゆかない。けれど、恋愛《こい》の芽もまだ宿してはいないと、心で頭《かむり》は横に強く振った。
そんなことを思う傍らで、まだ移転《ひっこし》の日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜着《よぎ》と、鉄の手焙《てあぶ》りだけだった。
「僕は、なにしろ、蟹《かに》の缶詰《かんづめ》で失敗したから、何にもない。洋服が一着あるのだけれど、移転《ひっこし》の金が足りなかったから、質《しち》に入れてしまった。」
その費用の幾分でも、分担しようと、清子が銀時計を出すと、
「君の品《もの》なんぞ出さなくったって好《い》い。何しろ、樺太《からふと》で、蟹の缶詰で一儲《ひともう》けしようと思ったのだが――蟹はあるが、缶の方がうまくいかなかったんだ。」
彼はてれくさく、笑いながら言った。
――良《い》いところのある人だ――
清子は頬《ほお》をおさえた手に、頬骨がさわる気がした。毎朝見る鏡に、眼ばかり大きくなってゆくのがわかるのだが、こう段々に、夜が苦しいものになって来ては堪《たま》らないし、眼のさめた瞬間の心さびしさも、朝々ごとに、たまらないものに思った。
腕力をもってくるなら、反抗する決心もあるが、沁々《しみじみ》と訴えられるのは愁《つら》い。自分の思想を守るのに、そんなことで屈伏したり、陥落は出来ないとも思った。
最初の「霊の恋」の対手《あいて》の
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