い。
そこへ忽然《こつぜん》と現われたのが、半獣主義を標榜《ひょうぼう》する泡鳴だったのだ。
明治四十二年十二月に、泡鳴は、突然面識もない彼女に、逢いに行って、二時間ばかりの間、率直に自分の半生の経歴を、告白的にあからさまに語りきかせた。清子はそのおりのことを日記では、泡鳴氏の素行には同感できなかったが、恬淡《てんたん》な性質には敬意を持つことが出来たと書いている。
その日はそれで帰ったが、五日ほどたつと、泡鳴は二度目の訪問をした。その日は清子の父親が来あわせていたので、
「明日《あした》、も一度会見したい。実は、重大な御相談があるのだが。」
と言って帰っていった。翌日は、ちゃんとやって来て、こんどは家庭の事情を告白した。
――妻とは名義だけであって、物質の補助をしてやるだけだから――
「三年以上も絶縁しているのだが、妻の同意がないので、正式の離婚が出来ないでいるだけだ。」
だから、気にかけないで清子に同棲《どうせい》してほしい、同時に結婚もしてくれと申込んだ。
午後二時ごろ、お昼飯《ひるはん》をたべに、麻布《あざぶ》の竜土軒《りゅうどけん》へ行き、清子は井目《せいもく》をおいて、泡鳴と碁を二回かこんだが、二度とも清子が敗《ま》けた。そのあとを、二時間ばかり、泡鳴が玉突きをするのを見物していたが、こうした友人づきあいが、すっかり打解けた気分にはいりこめたものと見えて、幽霊坂の上でわかれる時には、引っこしの話までまとまって、新らしく家を借りる金を十五円泡鳴は清子に渡した。
「愛のない結婚なんて、自身を辱《はずか》しめることだし、男を欺く罪悪だ。」
と清子は結婚は拒絶したが、一家に同棲して見るのは承知した。
「無論、あなたの人格を尊重して――」
という約束をした。
この約束は、突飛《とっぴ》なようでもあるけれど、二度の告白で、泡鳴の正直さは、正直な彼女の心に触れたのでもあったろうが、だが、彼女は独りになると机の前で考えこんだ。愛は霊からはいったものでなければ本当でない、そして、正しい理智から出発したものでなければならないという、平常《へいぜい》からの持論が拒んだ。
――あたしは、あなたに友情以上はもてない。
そう書いて、預かったお金を封入してかえそうとするうちに泡鳴の方から手紙が来た。
勿論《もちろん》第一条件だけでも拒絶されるよりもよいが、第二条件もなるべく考え直して承諾してもらいたい――そんな文面だった。
「あなたは、樗牛《ちょぎゅう》を愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。」
泡鳴はそんなふうにもいったが、とも角《かく》共同生活にはいる話は、手っとりばやく纏《まと》まったのだった。
それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂|檜町《ひのきちょう》十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よく馴《な》れているのがいたが、泡鳴が厭《きら》いだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
その前年かに、泡鳴は小説「耽溺《たんでき》」を『新小説』に書いている。自然主義の波は澎湃《ほうはい》として、田山花袋《たやまかたい》の「蒲団《ふとん》」が現れた時でもあった。
ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生田春月《いくたしゅんげつ》さんが、花世《はなよ》さんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
そしてまた、そのころは、自由劇場が、小山内《おさない》さんによって提唱され、劇運動の炬火《きょか》を押出した時でもあった。
偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂《のぎざか》のちかく、わたしの住居《すまい》の裏の崖《がけ》の上になっている。いま、音楽家の原信子《はらのぶこ》の住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保《おおくぼ》へ移転《ひっこ》している。
今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京《ナンキン》陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが――新劇運動の親、小山内|薫《かおる》氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵《よい》だった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次《いちかわさだんじ》によって実現されようとしている。
私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然《もくねん》としている。
二
テトテトと、暁
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