りずっと後《あと》の、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頬《ほお》のおちた、鶴見《つるみ》のわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
 荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願《ほつがん》だった。
 郁子さんは、玉茗館《ぎょくめいかん》という旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段《おもてばしご》の方へ逃げた。郁子さんは、裏階段《うらかいだん》へ逃《のが》れた。表階段《おもてばしご》の方へ駈《か》けていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は――民雄《たみお》は、岩野泡鳴《いわのほうめい》氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
 泡鳴氏には、他《ほか》にも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんより後《のち》の妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不幸《ふしあわせ》な子だ。
 四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓表《ぼひょう》ばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によって立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹那《せつな》哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のためにもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、尤《もっと》も簡単でよく述べられているから、それを記《しる》しておこう。

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岩野泡鳴本名|美衛《よしえ》、明治六年一月二十日|淡路国《あわじのくに》洲本《すもと》に生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾来《じらい》墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩歌《しいか》に小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊饒《ほうじょう》と、着想の奇抜は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良な
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