もなるべく考え直して承諾してもらいたい――そんな文面だった。
「あなたは、樗牛《ちょぎゅう》を愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。」
泡鳴はそんなふうにもいったが、とも角《かく》共同生活にはいる話は、手っとりばやく纏《まと》まったのだった。
それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂|檜町《ひのきちょう》十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よく馴《な》れているのがいたが、泡鳴が厭《きら》いだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
その前年かに、泡鳴は小説「耽溺《たんでき》」を『新小説』に書いている。自然主義の波は澎湃《ほうはい》として、田山花袋《たやまかたい》の「蒲団《ふとん》」が現れた時でもあった。
ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生田春月《いくたしゅんげつ》さんが、花世《はなよ》さんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
そしてまた、そのころは、自由劇場が、小山内《おさない》さんによって提唱され、劇運動の炬火《きょか》を押出した時でもあった。
偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂《のぎざか》のちかく、わたしの住居《すまい》の裏の崖《がけ》の上になっている。いま、音楽家の原信子《はらのぶこ》の住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保《おおくぼ》へ移転《ひっこ》している。
今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京《ナンキン》陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが――新劇運動の親、小山内|薫《かおる》氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵《よい》だった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次《いちかわさだんじ》によって実現されようとしている。
私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然《もくねん》としている。
二
テトテトと、暁
前へ
次へ
全19ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング