あります。一、二年もしてやってゆけば、妹に譲って、わたしはわたしの何か仕事をはじめようと思っています」
長椅子の方へ来て、くつろいでこんな打明けばなしをしてから、御免なさいといって、はじめて巻煙草《まきタバコ》の一本をつまんだ。
お鯉さんのこれからの生活は、かなり色の褪《あせ》た、熱のないものであろうとその時わたしは思った。彼女は羽左衛門と、三下《さんさが》り、また二上《にあが》りの、清元《きよもと》、もしくは新内《しんない》、歌沢《うたざわ》の情緒を味わう生活をもして来た。巨頭宰相の寵愛《ちょうあい》を一身にあつめ、世の中に重く見られる人たちをも、価値なきものと見なすような心の誇りも知って来た。いかなるものが現われ来て、この後の彼女を満足させるほどその生活を豊富にするであろうか? それは疑問だ。何にしても彼女の過去が、あんまり光彩がありすぎた。あざやかすぎた。
とはいえそれを救うのは、純潔なる魂の持主、熱烈な情熱と、愛情でなければならない。彼女が、生来まだかつて知らぬ、清純な恋そのものでなくてはならない。が、悲しいことに、いたずらに費消された彼女の情熱は、真純さを失って、彼女の外見のかたちよりは若さを消耗している。
彼女が子供好きで、子供がなくてはさびしくていられないという心持ちは察しることが出来る。子供ほど彼女の複雑な気持ちを害さないものはないであろう。彼女の真の慰安は――友達は、無邪気な子供よりほかないであろう。
お鯉さんとはなしをしているうちに、その声に、いろいろと苦労をした人だと思わせられる響きを感じた。美人と境遇と声音《こわね》――これもこの後心附けなければいけないと思った。それから、お鯉さんには、わたしが気にかける二本の横筋が咽喉《のど》にあった。ほんにこの筋のある美女で苦労を語らない人はない。
考えると人生はさびしい。そしてむやみに果敢《はか》なくなる。
[#地から2字上げ]――大正十年一月――
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昭和十年附記 昨年赤坂田町の待合「鯉住」の女将として、お鯉さんが某重大事件の、最初の口火としての偽証罪にとわれ、未決に拘禁されたのは世人知るところであり、薙髪《ちはつ》して行脚《あんぎゃ》に出た姿も新聞社会面を賑《にぎ》わした。おお! 何処までまろぶ、露の玉やら――
[#ここで字下げ終わり]
底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1921(大正10)年1〜3月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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