左衛門が年少で、技芸《わざ》も未熟であり、給料も薄く、そして家には先代以来の借財が多かった時分に、身の皮まで剥《は》いて尽したのが洗い髪のおつまである。ままにならぬ世を果敢《はか》なんだ末に、十八の若旦那市村は、身まで投げたほどだった。おつまはその心にほだされて、ありとある事を仕尽したが、結局はお鯉が嫁入りするようになった。もうそのころ羽左衛門は昔日《むかし》の若造でもなければ、負債があるとはいえ、ひっぱり凧《だこ》の青年俳優であった。またその次の細君の時代は、羽左衛門の一生に、一番|覇《は》を伸《のば》しかけた上り口からで、好運な彼女は、前の人たちの苦心の結果を一攫《いっかく》してしまったのであった。
「お鯉さんときたら、あんまり慾がなくって、だらしないくらいでしたからね、あれじゃとても羽左衛門は立ちませんでしたあね。なんしろ手当り次第にやっちまうのでしたからね。誰れか下の者が訪《たず》ねてゆくでしょう「お前に何かやりたいねえ」というと、何処からか到来物らしい、新しいラッコの帽子を、そらきた、とやるのですからね。一事が万事で大変でさあね」
 猫背《ねこぜ》な三味線の師匠は、小春日和《こはるびより》の日を背中にうけた、ほっこりした気分で、耳の穴を、観世縒《かんぜより》でいじりながら、猫のようにブルブルと軽く身顫《みぶる》いをした。人気俳優の家庭を知っていることに聴手《ききて》が興味をもつであろうと思って、そのくせ自分はキョトンとして居睡《いねむ》りの出そうな長閑《のどか》な顔をしていた。
 すると、太棹《ふとざお》の張代えを持って来て見せていた、箱屋とも、男衆とも、三味線屋ともつかない唐桟仕立《とうざんじたて》の、声のしゃがれた五十あまりの男がその相手になって、
「なにしろかまわずお金も借りたというじゃありませんか」
といって、サワリを一生懸命に直していた。
「そりゃあまあ、本当だか嘘だか知らないがね」
「いいえ、旦那の知らない借金が、いつの間にか増えているんだそうですよ。あのずぼら[#「ずぼら」に傍点]やさんが吃驚《びっくり》なんだから、輪をかけた呑気《のんき》な女だったと見えますね」
「これを着ておいでっていうと、紋付だろうがなんだろうが、其処にあるのを手あたりまかせだったというからね」
「お気に入ると儲《もう》かったのだがね」
 しゃがれた声はカラカラと高く笑った。
「しかし、たいしたものだって言いますよ。麻布《あざぶ》のお宅というのはね、あの女《ひと》の居間の天井は、古代更紗《こだいさらさ》で張ってあるのですとさ、それが一|寸《すん》何円てしようっていうのだから剛勢じゃありませんか、何しろ女に生れなけりゃ駄目ですね」
「だが、やっぱり二人|老母《ばあさん》が附いてるのだろう」
「そいつが厄介ですね、別にすぐそばに一軒、家が建っていますがね」
 わたしはぼんやりと、そんなことも聞いていた。

 やがて日露戦争は終局に近づいたが、それに従って国内の景況は不穏になって来た。いわれなき講和、償われぬ要求であると、内閣不信任は喧《かまびす》しい喧噪《けんそう》となった。寵妾《ちょうしょう》お鯉の家に大臣は隠れているといって、麻布の妾宅焼打ちを、宣伝するものがあった。日比谷《ひびや》には騒擾《そうじょう》が起り、電車焼打ちがあって、市内目抜きの場所の交番、警察署、御用新聞社の打|壊《こわ》しなどがはじまり、忠良なために義憤しやすき民衆は狂暴にされ、全市に戒厳令が布《し》かれて三々五々、銃をもち剣を抜いた兵士が街路に屯《たむろ》し、市中を巡羅するようになった。無辜《むこ》の民の幾人かは死し、傷つけられ、監獄につながれたりした。その騒動に、お鯉は何処にかくれていたか、もとより彼女の家は附近に隙間《すきま》なく護衛が配置されてあった。
 その頃のお鯉は出世の絶頂で、勢いは隆々としていた。多くの政客も無論出入していた。大阪の利者《きけもの》岩下は最も頻繁《ひんぱん》に伺候していた一人である。
 秋風一度吹いて、天下の桂の一葉は散った。その大樹のかげによって生ていたものは多かった。そして凋落《ちょうらく》をまぬがれなかった。被《おお》うものがなければ日の目はあからさまである。冷たい霜も降る、しぐれもわびしく降りかかる。木枯《こがらし》も用捨なく吹きつける。さしもに豪華をうたわれた岩下氏もある事件に蹉跌《さてつ》して囹圄《れいご》につながれる運命となった。名物お鯉も世の憂《う》きをしみじみとさとらなければならなくなった。
 五万円の遺産分配――それは名のみ、お鯉のために分けられたというよりは、公爵の遺児で、表面夫人の手には引きとられぬきわ[#「きわ」に傍点]に出来た、泰三、正子、の六歳と九歳になる子たちを、引取って育てていたからのことであった。お鯉はそのために切髪とならなければならず、思いもかけぬ子に母とよばれなければならぬことになった。そうした考慮《かんがえ》が、お鯉自身から生れようか、生れるはずがないのである。
 柳橋に、一藤井《いちふじい》という、芸妓を多勢|抱《かか》えている家があった。そこの、あんまり名も知れない抱え芸妓のひとりが、どうしたことか桂公のおとしだねだということが知れた。そんな始末もお鯉がするようになった。妹ともよんでよい年頃の女に母と呼ばれて、お鯉はどんな気がしたであろう。その女をともかく一角《いつかど》の令嬢仕立にするまでお鯉の手許《てもと》においた、そして嫁入りをさせて安心したといった。しかしやがて五万円は諸々《もろもろ》の人の手によって手易《たやす》く失われてしまった。
「お妾のする仕方じゃない」
 それらを考えるときに、その言葉が生《いき》てくる。

 そのころのお鯉の生活の逼迫《ひっぱく》が、お〆さんの口から、ちらりと洩らされたことがある。
「金にあかしてこしらえたものも、こうやって二束三文に手離しておしまいなさるんですよ。お気の毒さまですね、お邸こそ以前《もと》のままですけれど、おはなしになりませんやね。いまじゃ米屋が強面《こわもて》で催促していることもありますものね」
 お〆さんにも多少の感慨はあるか、金の義歯《いれば》のチラリと光る歯で、四分一の細い吸口《すいくち》をくわえたまま、眉間《みけん》にたて皺《しわ》を二本よせて、伏目になっていた。
「お髪《ぐし》のものもなにも、あれじゃもう入りません。けれどおかわいそうです。あの気性じゃたいへんです」
 その折り、麻布の家に一人の青年がいて、その人が一人お鯉のことに誠実を尽してやっているといった。またしばらくたってから来ると、こんどはその青年が、下にもおかずもてなされているらしいことを語った。
「食事でもなんでもお上通《かみどお》りで、お鯉さんとひとつに食《たべ》るのですよ。あの方が身を立《たて》てあげればだが、お鯉さんもそれまでにはまた一苦労ですね」
と、隠居たちが派手なしきたりや、お鯉自身もどんなに困っても昔時《むかし》の通りだということを、どうしようもないように呟《つぶや》くように話した。

 お〆さんは、お鯉の真実の親は、ほんとは誰だか分らないのだとも言った。清元《きよもと》倉太夫の子だというがそれは貰《もら》いっ児《こ》で、浜町花屋敷の弥生《やよい》の女中をしていた女が、藁《わら》の上から貰った子を連れて嫁入ったのだとも言った。
「お鯉さんは清元が上手ですよ、養父さんがしこんだんですからね。十三くらいに、弥生さんの手伝いをしていて、それから花柳界へ出たのです。豪勢な出世もしたかわりに、これからが寂しいでしょうね、肩の荷のなくなった時分にゃ、もう老《ふけ》込んでしまいますからね」

 名物お鯉の後日譚《ごにちがたり》は、膾《なます》になっても生作《いきづく》りのピチピチとした生《いき》の好いものでなければならないと、わたしはひそかに願っていた。すると、かなしいことにお鯉は永平寺の坊さんの、大黒《だいこく》になったという腥《なまぐ》さい噂《うわさ》を聞いた。おやおやと落胆してしまった。
 願うのではないが、有為の青年と、真に目覚《めざめ》た、いままでの生涯に、夢にも知らなかった誠実を糧《かて》にして、遺産は子供と母親たちに残して、共に掌《て》に豆をこしらえるふうになってしまったときいたならば、わたしはどんなに悦んだであろう、それこそお鯉さん万歳をとなえたかも知れない。しかし、いかに、暖かい褥《しとね》にじっとしていたいからとて、母親の御意のままになるがよいとて、人もあろうに出家の外妾とは、どうした心の腐りであろうと、好きな女であるだけに厭《いや》さが他人《ひと》ごとではないような気がした。とはいえ坊さんにだからとて恋がないとはいえないと弁護をして見ても、お鯉がその青年を捨《すて》てまで、または捨られたとしても、それにかえるに老年の出家を選もう訳がない。そこにはどうしても物質から来た賤《いや》しい目的が絡《から》まなければならない。
 彼女は大森にいると伝えられた。生麦《なまむぎ》にかくれているとつたえられた。鎌倉に忍んでいると伝えられた。
 多恨なる美女よ、涙なしに自身の過去《すぎこ》しかたをかえりみ、語られるであろうか。わたしはあまりに遠くから聴き、また見た記憶のまぼろしばかりを記しすぎた。近づいてあきらかに今日の彼女を知らなければ心ない噂と、遠目の彼女で全体をつくってしまう恐れがある。折よくも彼女は彗星《すいせい》のようにわたしたちの目の前に現われた。銀座のカフェー、ナショナルは彼女が新《あらた》に開いた店だということである。わたしは其処へいって、親しく、近しく、彼女の口から物語られる彼女を知ろうと思う。

       三

 大正九年も終る暮の巷《ちまた》を、夕ぐれ時に銀座の、盛《さかん》な人渦の中を、泳ぐというより漂ってわたしはいった。
 クリスマス前の銀座は、デコレーションの競いで、ことに灯《ひ》ともし時の眩《めま》ぐるしさは、流行の尖端《せんたん》を心がけぬものは立入るべからずとでもいうほど、すさまじい波が響《どよ》みうねっている。これが大都会の潮流なのだろうと、しみじみと思わせられながらわたしはゆく――
 今年の花時、花が散るとすぐあとへ押寄せてきた、世界大戦後の大不況のドン底の年末だとは、銀座へ来て、誰れが思おう、時計に、毛皮に、宝石に、ショールに、素晴らしい高価を示している。そしてその混雑の中を行く人は、手に手に買物を提《さ》げている。高等化粧料を売る資生堂には人があふれている。それも婦人ばかりではない、男が多かった。関口洋品店は流行のショールがかけつらねられて、明るさはパリーなどを思わせるようで、その店も人でざわざわしていた。美濃常《みのつね》では、帽子や、手袋や、シャツや、どれが店員なのか客なのか、見分けられないほどに黒く白かった。わたしはその中をぼんやりと歩いた。
 華やかな笑い声がきこえる。はっと我にかえると羞明《まぶ》しい輝きの中にたっている自分を見出《みいだ》した。そして前には美しいショールの女の五、六人が、中を割って、わたしを通して行きすぎた。すぐまたその後へ、キチンとした洋服の、すこしも透《すき》のない若紳士の群れが来る。わたしはしどろもどろである。乾《かわ》いて来た洗髪にピンがゆるんで、束髪《そくはつ》がくずれてくる煩《うるさ》さが、しゃっきりして歩かなくってはならない四辺《あたり》と、あんまり不似合なのに気がつくと、とって帰したいようになった。
 三丁目で、こんな店も銀座通りにあるかと思うような、ちょっとした小店で、眉毛《まゆげ》を剃《そ》ったおかみさんが、露地口《ろじぐち》の戸の腰に雑巾《ぞうきん》をかけていた。聞きよかろうと思って、カフェーナショナルは何処ですかと問うと、
「知りませんねえ、そんな家は。カフェーっていう洋食やならありますけれど」
 わたしはまた、銀座通りの店にこうした女房《おかみ》さんもあるのかと、お礼を言って離れた。
 尾張町《おわりちょう》の交番でたずねると、交番の巡査は
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