だと思って、ほんとうにはなし好いわ。貴女だって、まさか、そうしてまで来てくださって、皆とおんなじようなことはおっしゃるまいから」
 そういうと女将は変な顔をしてしまった。そして、これはしまったというように、
「そんな事いっちゃ、あたい困っちゃうね。そんなつもりじゃなかったのだよ。こうして来たらば、あたしのいうことを何でも聞くかと思ってさ」
と化《ばけ》の皮を現わしてしまった。
「そりゃあいけないわ女将さん。ふだんの姿《なり》だとあたしにも義理があるけれど、袈裟をかけていて下さるとほんとに話好いのだから。第一あなたも苦労人じゃないか、先方のいうことばかりを聞いて、こっちになって考えてくれないからですよ。よく思って見ておくんなさい。誰が一番可哀そうなの、旦那には離れるし、これからさきどうしてゆこうと苦労しているものの身になって考えて御覧なさい。貞操を守れったって、はい守りましょうといって守れなかったらどうするの、かえって恥じゃありませんか? そんなことは約束するものじゃありますまい。それから子供のことだって、十二人もある子供で、腹違いが多いから、お前の子として育って来たものを、また他《ほか》の者の手へ渡しては子供が可哀そうだからと、すっかりあたしの子になさったのを、誰に教育をたのもうというのでしょう。犯《みだ》りに外出をいたさぬ事というのも、あんまり人を人間でないように思っているじゃありませんか、旦那の在世のうちだって、一々本邸へ電話をかけて、許しをうけなければ一足も外へ踏みだせなかったので、つい面倒くさいから芝居ひとつ見ないようになってたじゃありませんか。これからこそ、気楽にして暮したいと思うのに、なんだかんだと煩《うる》さい事を聞くのも、それもお金があるからだと、つくづくほしくなくなっちゃったんです。もともとあたしのものなのだから井上の御前にあげましょうって言うだけなのですわ」
「そう言われればそうだけれど、あたいは困っちゃったね」
 困っちゃったと口にはいっても、言われないとこまでも女将の胸には梁みたのであろう。なぜならば、わたしは或折この女将の洩《もら》した歎息と、述懐を聞いたことがある。
「あたしはありとある愁《つら》い経験をもっていて、いろいろな涙の味を知りつくしている。だから、どんな芝居を見ても面白い、感動する。なぜならそのどれにも共鳴するものを噛《か》みつくしているからだ」
といったようなことであった。あの根上りの飛上った小さな丸髷《まるまげ》が、あの人の一面を代表しているようには見えたが、あの髷の下にも、真実はかたまって残っていたのである。彼女もまた動いてしまった。

       八

 そんなこんなで麻布を引払い、大井の方へ移った。大井の里の家は、かなり手広なのと、すこしはなれて、梅や桃を多く植廻《うえまわ》した小家との一軒をもっていた。狭い方のへ老母たちが住《すま》い、広い方へ子供とお鯉と、秋田から出京したしげ子とが住んだ。
「姉は子供が好きだったので、みんな慕っていましたが、今では三人とも手離してしまって、淋しいのを紛らすために六歳になる女の子を貰《もら》って育てています」
「柳橋から来ていた大きいのは縁附きました。も一人の女の子は十二の時に、桂二郎さんに引とられこの間それも縁附きました。その子は幼少《ちいさ》いうちから手塩《てしお》にかけたので、わたしを何処までも母だと思っているのです。二郎さんのところへ訪ねていったら、あたしの事を、あちらの御夫婦へ大層|気兼《きがね》するので、気が痛んで来て、それから行かないようにしましたの。あれを手離した時のさびしさといったら……」
 暗然と、聞くものの胸にもにじむものがある。
「男の子は安藤の家督にしてあるのですけれど、その子の母に連合《つれあい》があって、生みの母の縁から深く附合《つきあ》うようになったところ、なにしろその子の義父《ちち》だというので、何かと家の事へも手を出したがるし口も出すのです。それやこれやの迷惑は一通りじゃなかったので、種々《いろいろ》と世間からもあたしが誤解されたり、大井の広い家も売ってしまうようになって、そのかわりに、家ごとその子も先方へ持っていったのです」
「五万円のうち一万二千円ずつ三人の子につけて渡したのですからあまったのは幾らもありはしません。それで桂さんの死後、ざっと十年たらず今日まで過して来たのですね。もう今は残っていません、何にもなくなったから商業《しょうばい》をはじめたのですね、ねえ、姉さん」
「母もなくなりますし、残っていた養母も去年なくなりました。木からおちた柿のように、ほんとの一人ぼっち――けれど此妹《これ》がいてくれたので……」
 暫時《しばし》、三人は黙した。ケンチャンが白いものを着て、髪の毛にも櫛《くし》の歯
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