り出来ません。出来ることならばいたしますが、わたくしにはとても出来ないと思いますからいたしません。明日《あした》の心さえ自分でわからないほどですもの、長い一生をかけて、どうしてそんな、とんでもないお約束が出来るものですかって、いってやったんです」
それは甚《ひど》く雪の降った日のことであったという。座には早川千吉郎、益田なにがし、その他|錚々《そうそう》の顔触れが居並《いなら》んでいた。その中へ引きいだされた彼女は、慾を捨《すて》ていたのでそれが何よりもの味方で心強かった。彼女はこじれた金などはもう取りたくなかった。それよりも早く自由な身になって桎梏《しっこく》から逃《のが》れたかった。
雷が鳴る――はらはらしたのは仲にたつ人々であった。世外侯《せがいこう》の額の筋がピカピカとすると、そりゃこそお出《いで》なすったとばかりに、並居《なみい》る人たちは恐れ入って平伏する。そして小声で、悪いようには計らわないから、御尤《ごもっと》もと頷《うな》ずいてしまえとすすめる。
「あなた方は、あの方を怒らしてしまうと後の恐《こわ》いことがあるからでしょう。あたしはちっとも恐かないから嫌だ」
ここにおいてお鯉の目には明治の元勲井上老侯もなければ、財界の巨頭たちもないのであった。たかが女一人を――その財産を、自由を、子供の教育を、何もかもを、女と侮って、寄ってたかって、何のために押えつけようとするのであろう。それも旦那の生前に頼まれていたとでもいうのならいざ知らず、横合《よこあい》から飛出して来たおせっかいである。
千金の壺《つぼ》だといっても、その真価を知らぬものには三文にもあたいしない代物《しろもの》としか見えない。さすがの老侯も物質尊重のお歴々には、あがめたてまつられている御本尊であるが、お鯉にとっては、おせっかいな世話やき爺《じじい》に過ぎない。世外《せがい》どころか、おせっかいにも、他家《よそ》の台所の帳面まで取りよせて、鼻つまみをされる道楽があった。天下の台所の世話やき、お目附けは結構でも、老いては何とやらの譬《たと》え、ついには他人の妾《めかけ》の台所まで気にするようになられたものと見える。
さはあれ引っ込みのつかなくなったのは、実に思いがけない事であろう。天下に、この俺にむかって楯《たて》をつくものがあろうかと思っている鼻さきを、嫌というほどにへし折って、そのあげくの口上がこれである。
「面倒くそうございますから、なにもかもみんな御前《ごぜん》に差上げます」
そして目録を書いてある遺書を、さっさとおいてお鯉は帰ってしまった。
お鯉の家の門前は急に人足が茂くなった。手をかえ品をかえ、温顔に恐面《こわおもて》に、さまざまの人が、さまざまの策略をめぐらして訪問するのであった。慰問使、媾和《こうわ》使、降伏説得使なのである。鯉の頭は猶更《なおさら》下ろうとはしない。その多くのなかに異色ある者が二人あった。男女互に一人ずつ、共に有名な人物である。
女は当代の名物女とゆるされた故「喜楽」の女将《おかみ》おきんであった。男は政界の名物|法螺丸《ほらまる》と綽名《あだな》をよばれた、杉山茂丸という人である。
杉山は度々仲にはいって足をはこぶうちにお鯉のいうことに耳を傾けるようになった。そしてその方が理窟のあることだと同情してしまった。つまり説得するものが説破《せっぱ》されたのである。この人はお鯉の利益になるように説くようになった。そこで、喜楽の女将が、我こそと手ぐすねをひいて出て来たのだ。自分でなければ、ああひぞってしまった女を、説附《ときつ》ける腕はないと信じて現われた。
喜楽の女将の一喝《いっかつ》にあえば、多くの芸妓は縮みあがってしまう勢いがあった。流行妓《はやりっこ》になるのも、よい姐《ねえ》さんになるのも、お披露目《ひろめ》に出た時、女将の目にとまって、具合よく引っぱり廻され、運の綱を握るようにしむけてくれるからである。で、たいていな妓は、喜楽の女将の言うことに逆らわなかった。けれども、そのおりのお鯉は、とてもそうした威《おど》しでは駄目だと炯眼《けいがん》な女将は見てとった。
ある日女将は輪袈裟《わげさ》をかけ、手に数珠《じゅず》をかけて訪《たず》ねて来た。切髪となっていたお鯉は、越前永平寺禅師となって、つい先の日|遷化《せんげ》された日置黙仙《へきもくせん》師について受戒し参禅していたが、女将もその悟道の友であった。ものものしくも、いしくも思いついた姿でやって来た女将は、
「今日は平日《ふだん》のあたしじゃあない。この姿を見て下さい。この袈裟の手前としても、いざこざなしに話をしましょう」
といった。それに答えたお鯉は、
「本当に女将さんよくその姿で来て下さった。それならば、あたしは貴女を、真に打解けてよい人
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