は粋《いき》なことを書いていた、筆の人だった。悲しかった別れの人、それは京大法科の学生だったが、大阪の銀行にはいった人だった。
 あの人たちは、モルガンが、こんなに良くしてくれるのを知って、わたしを幸福に暮させようとしてくれたのかも知れない。
 そう考えると、お雪はホロホロとした。言葉もわからない外国へわたしをやってしまうなんてと、怨《うら》んだ事も、馴《な》れて見れば、今日のような日もある――
 お雪の心は、悲しいほど柔《なご》まっていた。
 一生をモルガンにまかせて、何処ででも果《はて》よう、国籍は、もう日本の女《もの》ではないのだという覚悟が、はっきりした。
「パリと異《ちが》って、こんな明《あかる》いところでも、そんなに淋しいのですか。そのうちにまた京都へ行きましょう。」
 モルガンは、お雪が望郷の念に沈んでいるのだと思って慰めた。
「いいえ、決して淋しくありません。」
 どういたしまして、心淋しかったのは、かえって京都にいた時ですとお雪は言いたかった。それは、モルガンがお雪と結婚して米国へ一緒に立ってから、一年ほどして、京都へ遊びに帰った時のことだった。南禅寺の近く、動物園のそばの、草川《くさかわ》のほとりの仮住みの別荘へ、
「あんた、油断してはならへんがな。」
と注進するものがあって、風波が立ちかけたことがある。
「あんた、先度《せんど》お出《いで》やはった時に、わてに口かけときなさりながら、島原《しまばら》の太夫《たゆう》さん落籍おさせやしたやないか。いえ、知っとります、横浜へ、あんたさんの後追いかけて、その太夫さんがお出《いで》やしたことも。よう知ってますがな。」
と、やかましいことになったのだった。まだ、お雪の話が纏《まと》まらないうちに、島原遊廓の、小林楼の雛窓太夫《ひなまどだゆう》を、モルガンが、内密で、五百円で親元《おやもと》根引《ねび》きにさせたことを持出して、お雪はその時のことも、本当だろうと気にしたのだ。
 一年ぶりで、花の春の、母国へ訪ずれて来たお雪は、知る人も知らぬ人も、着物も、匂いも、言葉も、懐《なつか》しかったので、忙《せわ》しなく接していた。恰度《ちょうど》日本は、露国との戦争に、連戦連勝の春だったので、草川の家の軒にも、日米の国旗を掲げて、二人は賑《にぎや》かな心持ちでいた。
 折もおり、丸山公園の夜桜も盛りであったし、時局の影響で遠慮していた、島原のものいう花の太夫道中も、その年は催おされた。
 道中の真っさきには、若手の芸妓が綱をとって花車《だし》が曳《ひ》き出され、そのあとへ、先頭が吉野《よしの》太夫、殿《しんが》りが傘止めの下髪《さげがみ》姿の花人《はなんど》太夫、芸妓の数が三、四十人、太夫もおなじ位の人数、それに禿《かむろ》やら新造《しんぞう》やらついて練り歩くのを、外国人の観覧席は特別に設けたという後だったので、お雪は雛窓のことを思い出して、カッとなったのだった。
 ――あたしの顔をつぶすのか――お雪は外出するのも厭《いや》な気持ちになってしまった。
 お雪には、モルガンに、他に増花《ますはな》が出来たという噂《うわさ》がたつことが、何よりも愁《つら》いのだった。
 だから、あんなに恋しかった日本も京都も、長居する場処でないとなると、フランスに帰ろうというよりほかはない。
「どうして、アメリカへお出《いで》にならないんです。」
と聞かれでもすると、モルガンが、フランスが好きなのですと答えたが、其処《そこ》には、この夫婦が口にしないで、いたわりあっている、夫婦の間でも秘密にしていることがあったのだ。
 ――姉《ねえ》さんたちも、お母さんも、楽々と暮しているようだ――
 それで好《い》いのだ、わたしに後の心配はすこしもない。とお雪は叫びたかった。四万円の身《み》の代金《しろきん》で姉さんは加藤楼の女将《おかみ》になっている。百五十円の月手当は老母《としより》の小遣いには、多いからとて少なくはない。
 お雪は、ミモザの花と日光の黄金の光りのなかに、蜂《はち》のように身軽にベンチから跳ねおきて、
「さあ、もう、あたしは明るくなった。」
と、しっとりと濡《ぬ》れた心を、振りゆすって言った。
「カジノへ行って見ましょうか、あたしでも賭《かけ》に勝つかしら。」
「いいえ、僕は、こんな快《こころよ》い気持ちのときに、君の胡弓《こきゅう》が聴きたいのだ。どうぞ、弾《ひ》いてください、梨《なし》の花のお雪さん。」
「それも好いでござんしょうね。」
 お雪はさからわなかった。四万円のモルガンお雪と唄われたローマンスは、胡弓の絃《いと》のむせびが、縁のはじまりでもあったから、モルガンも今、自分とおんなじような思出にひたっていたのだなと、
「室《へや》へ帰って弾きましょうか、此処へ持って来ましょうか。」
「岸はあんまり人がいすぎるね、馬車も通るし。」
「でも、みんな、知ってたことですもの。」
 お雪がほほえんでそう言ったのは、自分たちの情史は、あんなに評判されたからという意味だったので、モルガンは愉快に笑った。
 ――お雪が、二度と語るまい、また、弾くまいと、その時、モルガンと自分との恋のいきさつを、胡弓の絃に乗せて、あの、夢のような竜宮、碧藍《みどり》の天地へ流したそれを、かいつまんで伝えればこんなことになる。
 京都の、四条の橋について、縄手《なわて》新橋|上《あが》ルところに、小野亭というお茶やがあった。外国人ばかりをお客にするので、そこに招《よ》ばれる妓《こ》を、仲間では一流としない風習があった。
 鴨川《かもがわ》をはさんで、先斗町《ぽんとちょう》と祇園。春の踊りでも祇園は早く都踊りがあり、先斗町はそれにならって鴨川踊りをはじめた。そのまた祇園の歌妓《かぎ》、舞妓《まいこ》は、祇園という名の見識をもたせて、諸事|鷹揚《おうよう》に、歌舞の技業《わざ》と女のたしなみとを、幼少から仕込むのだった。
 縫いの振袖に、だらりに結びさげた金襴《きんらん》の帯、三条四条の大橋を通る舞妓姿は、誰《た》が家《や》の姫君かと見とれさせるばかりだった。そうした舞妓時代を経ないものは、祇園の廓内《くるわうち》でも好い位置を保てないのが不文の規則なのだ。出入りのお茶やにも格があったのだ。
 十九のお雪に、小野亭の仲居《なかい》がささやいた。
「あんたを、あの外国人が、ぜひ梅《うめ》が枝《え》に連れて来ておくれと言うてなさるが――」
 梅が枝は円山《まるやま》温泉の宿だった。
「モルガンさんいうて、米国の百万長者さんの、一族の息子さんやそうな。」
 日本の春を見に来たモルガンは、沢文《さわぶん》旅館の滞在客で金びらをきっていた。

       二

 金持ちや美男に、片恋や失恋などがありましょうかと、簡単にかたづけられてしまいそうだが、恋というものの不思議さは、そこだといえないでもない。
 およそ、見るほどのものを陶然とさせ、言い寄られた女性たちは、光栄とも忝《かた》じけなしとも、なんともかとも有難く感じ奉《たてまつ》ったあの『源氏物語』の御《おん》大将、光る源氏の君の美貌《びぼう》権勢をもってしても、靡《なび》かなかった女があったと、紫式部が、当時の生活描写を仔細《しさい》にとり入れて書いた作《もの》さえある我国である。
 金と男ぶりとだけがものをいうのなら、むかしゃ仙台さま殺しゃせぬで、新吉原の傾城高尾《けいせいたかお》の、大川の船の中での、釣《つる》し斬《ぎ》りの伝説は生れはしない。
 米国の百万長者、モルガン氏の一族で、未婚で、美貌な、卅歳の青年も、お金と美貌だけではこの国の女は思うままにならなかったのだ。
 要約すれば、明治卅年ごろは、金の威光が今ほどでないとはいわないが、女の心が、物質や名望に淡《うす》かった。廓の女でも、躰《からだ》は売っても心は売らないと、口はばったく言えた時代で、恋愛遊戯などする女は、まだだいぶすけなかったのだ。――すけなかったというので、なかったとはいえない。甚だよくない言いかただが、男地獄買いという嫌な字と、貴婦人醜行という拭《ぬぐ》えないいとわしい字があるが、それは、他のことで、その時代を書く時に、そんな嫌な言葉を生んだ風潮を弁明して、全《すべて》の女性に負わせられた恥辱をそそごう。
 ところで、ここにまた、不思議なことに、かつて成恋《せいれん》した男性を奪うということは、ある種の女には誇りとする傾きがある。その代りにまた、失恋した人、厭《きら》われた男ときくと、その人を見下げないと、自分の沽券《こけん》にさわるように見もしかねない。だから、あんな奴にと思うような男に多くの女がひっかかって、恋猟人《ラブハンタア》の附け目となり、釣瓶《つるべ》打ちにもされるのだ。
 そこでモルガン氏に帰れば、彼は、米国から、失恋の痛手を求めに、東洋へ来たのだと、何処からとなく知られていた。フランスでも癒《いや》されない恋の痛手を、慰撫《いぶ》してくれる女を、東海姫氏国《とうかいきしこく》に探ねて来たのだと噂された。
 しかし彼は、かなり金ビラをきって情界を遊び廻り、泳ぎまわった割合に、花柳《かりゅう》の巷《ちまた》でさえ、惚《ほ》れた女を、幾度も逃している。
 モルガンは、お雪と逢ったはじめは、お雪の十九の年で、あっさりと別れているが、お雪の廿一の年に来て恋心を打明け、廿三のときに正妻に根引きした。それが三度目に日本へ来たときのことで、その後、結婚して帰国した次の年に一度、また次の年に来て、それきりモルガン氏も日本へは、バッタリ来なくなってしまったのだ。
 お雪との交渉もまだはじまらない時分、京都へも足を踏み入れない前に、モルガンは惚れた人がある。それは、芝山内《しばさんない》の、紅葉館《こうようかん》に、漆黒の髪をもって、撥《ばち》の音に非凡な冴《さ》えを見せていた、三味線のうまい京都生れのお鹿《しか》さんだった。
 お鹿さんは、お雪とは、全然|容子《ようす》の違う、眉毛《まゆげ》の濃い、歯の透き通るように白い、どっちかといえば江戸ッ子好みの、好い髪の毛を、厚鬢《あつびん》にふくらませて、歯ぎれのよい大柄な快活な女だった。
 お鹿さんは江戸の気性とスタイルを持った京女――これは誰でも好くわけだ。前代の近衛《このえ》公爵のお部屋さまになる女《ひと》だったが公爵に死なれてしまった。筆者《わたし》が知っている女では、これも、先代か先々代かの、尾張《おわり》の殿様をまるめた愛妾、お家騒動まで起しかけた、柳橋の芸者尾張屋新吉と似ている。私が新吉を知ったのは、愛妾をやめたあとだから、幾分ヤケで荒《すさ》んでいたが、当代の市川|猿之助《えんのすけ》の顔を優しくして、背を高くしたらどこか似てくるものがある女《ひと》だった。
「おしかさんは、支那の丁汝昌《ていじょしょう》が、こちらにお出《いで》になったころ、とても思われていたのですよ。」
と、ある時、紅葉館で、一番古参だったおやすさんという老女《ひと》が、わたしにしみじみ話してくれたことがある。
「おしかさんの傍をお離れにならないで、それはお可哀そうだったの。」
 それでも、おしかさんは、みんなが別格にあしらっていたほど、近衛さんの思いものだったから、丁汝昌は清国《くに》へかえってからも、纏綿《てんめん》の情を認《したた》めてよこしたといった。
 日清《にっしん》戦争がはじまってからも、水師提督はおしかさんを忘れなかったのだということを、お安さんは知っていたという。だが、二十八年二月、日本海軍が威海衛《いかいえい》を占領した時に、丁汝昌は従容《しょうよう》と自殺してしまったのだ。
 その後、幾度か、あたしはおしかさんの秘話を聞いて、一人の女性の運命と、生きていた時代との記録を残しておきたいと思いながら、その機会《おり》を失って、今では、当のおしかさんも、おやすさんも死んでしまったので残念におもっている。
 丁汝昌の死は、モルガンが最初に来た年より、ほんのすこし前のことなので、おしかさんがモルガンの懇望も相手にしなかったのは当然のことだが、
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