モルガンお雪
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)碧《あお》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|碧玉のふちべ《コート・ダジール》という

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(例)琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》
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       一

 まあ!
 この碧《あお》い海水《みず》の中へ浸《ひた》ったら体も、碧く解けてしまやあしないだろうか――
 お雪は、ぞっとするほど碧く澄んだ天地の中に、呆《ぼん》やりとしてしまった。皮膚にまで碧緑《あお》さが滲《し》みこんでくるように、全く、此処《ここ》の海は、岸に近づいても藍《あい》色だ。空は、それにもまして碧藍《あお》く、雲の色までが天を透かして碧い。
「まあ、何もかも、光るようね。」
「|碧玉のふちべ《コート・ダジール》というのだよ。」
と、夫のジョージ・ディ・モルガンは説明した。
 お雪は、碧い光りの中に呆《ぼん》やりしてばかりいられなかった。
 白堊《はくあ》の家はつらなり、大理石はいみじき光りに、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》のように輝いている。その前通りの岸には、椰子《やし》の樹《き》の並木が茂り、山吹《やまぶき》のような、金雀児《エニシダ》のようなミモザが、黄金色の花を一ぱいにつけている。
 岸の、弓形の、その椰子の並木路を、二頭|立《だて》の馬車や、一頭立の※[#「さんずい+肅」、第4水準2−79−21]洒《しょうしゃ》な軽い馬車が、しっきりなしに通っている。めずらしい自動車も通る。
「ニースって、竜宮《りゅうぐう》のようなところね。」
 お雪は、岸から覗《のぞ》く海の底に、深い深いところでも、藻《も》のゆれているのが、青さを透して碧く見えるのを、ひき入れられるように見ていた。足|許《もと》の砂にも、小砂利《こじゃり》にも、南豆《ナンキン》玉の青いのか、色|硝子《ガラス》の欠けらの緑色のが零《こぼ》れているように、光っているものが交っている。
「あたしは、一度でも、こんな気持ちのところに、いたことがあっただろうか――」
 お雪は思いがけないほど、明澄《めいちょう》な天地に包まれて、昨日《きのう》まで、暗い、小雨がちな巴里《パリ》にいた自分と、違った自分を見出《みいだ》して、狐《きつね》につままれたような気がした。
「巴里は、京都を思い出させたようだったからね。」
 モルガンは、此処へ着くと急に、お雪が、昔のお雪の面影《おもかげ》を見せて、何処《どこ》か、のんびりとした顔つきをしているのが嬉しかった。もともと淋しい顔立ちだったが、日本を離れてから、目立って神経質になり、尖《とが》りが添っていたのが、晴ればれして見えるので、
「以前《もと》のお雪さんになった。」
と悦《よろ》こんだ。
 ニコリと笑ったお互《たがい》の白い歯にさえ、碧さが滲《し》みとおるようだった。
「何見てるです。」
と言われると、お雪は指のさきを、モルガンの眼のさきへもっていって、
「手のね、指の爪《つめ》の間から、青い光りが発《で》るようで――」
と眼をすがめて見ているお雪があどけなくさえ見えるのを、モルガンは、アハハと高く笑った。
「あなたは、ニースへ着いたら、拾歳《とお》も二十歳《はたち》も若くなった。もう泣きませんね。」
「あら、あて、泣きなんぞしませんわ。」
「此処の天《そら》の色、此処の水の色、あなたを子供にしてくれた。気に入りましたか?」
 お雪は、それに返事する間もなかった。急いでモルガンの肘《ひじ》を叩《たた》いて、水に飛び込む男女を、指さした。
「人魚《ニンフ》、人魚《ニンフ》。」
 若い女の、水着の派手な色と、手足や顔の白さが、波紋を織る碧い水の綾のなかに、奇《あや》しいまでの美しさを見せた。
「西洋の人って、ほんとに綺麗ね。」
 溜息《ためいき》といっしょに、お雪が呟《つぶや》くようにいうと、
「そのかわりあなたのように、心が優しくない。」
と、モルガンは妻の手をとった。

 帽子をとったお雪の額をグッと髪の上までモルガンは撫《な》で上げたとたんに、彼は叫んだ。
「おお、マリア観音《かんのん》!」
 好奇にみちた彼の眼は素晴らしい発見に爛々《らんらん》と燃えて、
「うつくしい、うつくしい。大変に美しい。」
とお雪の頭を両手でおさえたまま、いつまでもいつまでも見入るのだった。
 白皙《はくせき》の西洋婦人《ひとたち》にもおとらないほど、京都生れのお雪の肌《はだ》は白かった。けれど、お雪の白さは沈んだ、どことなく血の気の薄い、冷たさがあって、陶磁器のなめらかさを思わせる、寒い白さだった。それが、明澄な碧緑《みどり》の空気の中におくと、広い額の下に、ふっくらした眼瞼《まぶた》に守られた、きれ長な、細い、長い眼が――慈眼そのもののような眼もとが、モルガンが日本で見た、白磁の観世音《かんぜおん》のそれのようだった。
 と、いうよりも、いま、お雪の全体が、マリア観音の像のように見えたのだった。キリシタン宗門禁制、極圧期に、信者たちは秘《ひそか》に慈母観音の姿ににせて造ったマリアの像に、おらっしょ[#「おらっしょ」に傍点]したのだという、その尊像を思いうかべるほど、今日のお雪は気高《けだか》く、もの優しいのだった。
 おお、あそこの岩窟《がんくつ》のなかに据えたならば、等身の、マリア観音そのままだと、モルガンがお雪を愛撫《あいぶ》する心は、尊敬をすらともなって来た。
「お雪さんを、わしは終世大事にします。」
 模糊《もこ》として暮れゆく、海にむかって聳《そび》ゆる山の、中腹に眼をやりながら、モルガンは心に祈るようにすら言った。
 お雪は、そういってくれる夫の、眼の碧さから、眼も離さないで、
「あたしこそ、あんなに騒がれて来ましたのですもの、あなたに捨てられても、おめおめと日本へ帰られはしません。」
 お雪の背中に手を廻して、モルガンはひしと抱きよせた。口にこそ出せないが、感謝と慚愧《ざんき》とをこめた抱擁だった。
 ――お互に、痛手はあるが、もう決して今日からそれをいわないことにしよう――
 男の心にも、女にも、そんな気持ちが、ひしひしとして、二人の魂を引きしめさせた。
「ニースへ別荘をつくろうか。」
 モルガンは気を代えるようにいうのだった。
 モルガンにすれば、はじめてニースに来て見た旅行者《エトランゼ》ではなかった。幾度か華《はな》の巴里《パリ》の華やかな伊達女《だておんな》たちと、隠れ遊びにも来ているのだが、不思議なほど清教徒《ピュリタン》になっていた。
 一流のホテルが、各自《たがい》にその景勝の位置を誇って、海にむかって建ち並んでいる。その前側が大きな弓型の道路で岸の中央に、海に突出して八角の建物のカジノ・ド・フォリーが夢の竜宮のように青ばむ夜を、赤々と灯《ひ》を水に照りかえしている。
 ホテルの窓々からも、美しい灯が流れ出しはじめた。山麓《さんろく》のそこ、ここからも竜燈《りゅうとう》のような灯が点《とも》りだした。天の星は碧く紫にきらめいているが、竜燈は赤く華やかだ。
「青い月。」
と、モルガンは、窓へお雪を呼んだ。
「こんな月、見たことありますか。」
 え、とお雪はうっかりした返事をしていた。洛外《らくがい》嵯峨《さが》の大沢の池の月――水銹《みさび》にくもる月影は青かったが、もっと暗かった。嵐山の温泉に行った夜の、保津川《ほづがわ》の舟に見たのは、青かったが、もっと白かった。
 宇治橋のお三の間で眺めた月は――といいたかったが、それは誰と見たときかれるのが恐《こわ》くって、お雪は、ふっと、口をつぐんでしまった。

 お雪に、竜宮城へ泊ったような夜が明けた。
 お雪が長く見なれて来た、京都|祇園《ぎおん》の歌舞の世界は、美しいにはちがいないが、お人形式の色彩だったから、お雪はあんまり明澄すぎる自然に打たれると、かえって、覚《さ》めているのか現《うつつ》かわからない気がして、夢幻境にさまよう思いがするのだった。
 全く素晴しい朝だった。天地の碧藍《みどり》が、太陽の光りを透《とお》して、虹《にじ》の色に包まれて輝いている。
「海の向うの、ずっと先方の方は何処ですの。」
「この|碧玉の岸《コート・ダジール》にも、椰子《やし》の樹《き》が並んでいるでしょう。地中海《うみ》を越した向うは、アフリカの熱帯地ですよ。それ、あすこがコルシカ島。先日話したナポレオンのこと知ってるでしょう。此処いらは海アルプス。この後《うしろ》の峰がアルプス連山。」
 モルガンは細かく教えてくれて、散歩に出て見ようと誘った。
「ええ、あの椰子の下のベンチへ腰かけて見ましょう。」
「その前に、朝の市《いち》を見せよう。」
 モルガンは花の市のように、種々《いろいろ》な花があって、花売りの床店《とこみせ》が一町もつづいている、足高路《あしだかみち》の方へお雪を伴った。
 朝市には、ニースに滞在している人たちが、買出しかたがた散歩に出て賑《にぎ》わしかった。お雪はまた呆《ぼん》やりしてしまった。花の香に酔ったように、差出されるままに買いこんでは抱えた。何処から尾《つ》いて来たのか、籠《かご》をしょった、可愛い伊太利亜《イタリア》少年が傍にいて、お雪が抱えきれなくなると、背中の籠へ入れさせた。
「夫人《おくさん》、夫人《おくさん》。ああ好い夫人だ。お美しいお顔だ、お立派なお召物《めしもの》だ。」
 花売りの女たちは、しきりに買手の女たちを褒《ほ》めている。そうかと思うと、
「なんだ、お前なんかに、こんな好い花が買えるものか。この好い匂いがわからないんだ。けちんぼう女《め》。」
と、いくら進めても買わない客の後姿に罵《ののし》っている。
「あら、鮮魚《おさかな》が――」
 お雪は、鮮魚の店へひっかかって、掬《すく》い網を持ってよろこんだ。
 大きな盤台《ばんだい》に、ピチピチ跳《はね》る、地中海の小魚が、選《よ》りどりにしゃくえた。ヒラヒラと魚躰《からだ》をひるがえすたびに、さまざまの光りが、青い銀のような水とともにきらめいた。また一人の少年が、お雪のお小姓《こしょう》のように、すぐにそれを受けとっている。
 お雪は、ふと、美しい着物は着ていたが、なんにも、購《か》いたいものも購えなかった、芸妓《げいしゃ》時代の窮乏を思いうかべた。それよりももっと、幼年時代、新京極あたりの賑やかな町を通っても、金魚店の前に立っているだけで、自分で思うように、しゃくって買った覚えのない、丸い硝子玉の金魚入れがほしかった事を、思い出すともなく思いだしていた。
 モルガンが払う金を見ていると、夜店の駄金魚を買うのとは、お話にならないほど高い金を、お雪の一時の興味にはらっているのだった。
 青い迷送香《まんにょうこう》、赤い紫羅欄花《あらせいとう》、アネモネ、薔薇《ばら》、そして枝も撓《たわ》わなミモザ。それはお雪の手にもモルガンの小脇《こわき》にも抱えこぼれ、お供の少年の、背中の籠にも盛りこぼれるほどだった。
「この花を、室中《へやじゅう》へ敷いて、お雪さん休みます。」
と、モルガンはいっているが、黄金《こがね》色の花が、みんな金貨のような錯覚をお雪に与えた。ダイヤモンドばかりでなく、自分の身からも光りが発しるような気がした。四万円で購《か》われた身だということに、今まで妙に拘《こだ》わっていたのさえ変な気がした。
 こんなに親切にしてくれた男はあったか――お雪は、ミモザの花に埋もれたようになって、椰子《やし》の木影のベンチに、クタクタといた。
 情人《おとこ》はあった。楽しかった人と、悲しかった人と――けれど、モルガンのような親切な男は、ない。
 はっきりと、ない、と心にいって見ると、ふと、日光《ひかげ》が翳《かげ》ったように、そうでない、みんな親切なのだったのではないかと、はじめて気がついた。
 楽しかった人――それ
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