っているものが、心の中で清算しきれないうちに、結婚予定は進んでいった。
 四万円は結納金《ゆいのうきん》ということになった。お雪は完全に妓籍を脱したのだ。
 世間というものはおかしなもので、胡弓芸妓のお雪も、さほどパッとした存在ではなかったのに、モルガン根引きばなしが起ってから、メキメキ売れ出してきた。
 しかも、だんだん金高《かねだか》が騰上《あが》ってゆくのにしたがって、人気が上っていって、一流のお茶やさんから引っぱりだこにされていた。勿論《もちろん》、一流のお客さんたちは、評判になった妓《こ》の顔も知らないとあっては恥辱《はじ》とばかりに、なんでもかんでも呼んで来いということになる。お金持ちは我儘《わがまま》だから、そうなると、あっちの茶屋へいっているといえば、なんでも貰《もら》って来いというのが、古来、廓《くるわ》の女に関しては、ことさらに定法《じょうほう》のようなお客心理だ。
 それが、京都の客ばかりでなく、大阪からも来る、東京のよんどころない方《かた》だからちょいと来ておくれというふうにもなって、三、四日前から口をかけておかなければ、お雪に座敷へ出てもらえないというようになっていた。
 お金をかけてさえそうだから、無代《ただ》となると、これはまた大変、町を――何かの催しがあって、百人ばかりの芸者が歩いたときは、その中にお雪がいるといったものがあったので、どれだどれだという騒ぎになり、あれか、これかと、顔を覗《のぞ》かれて、
「あの時は、えらい目に逢いましたわ。」
と、今日残存の老妓はいっている。
 結婚式の着附は――
「婿さんが洋服なら、あんたも洋服にしなされ。」
「そんなおかしなこと出来ますか。」
というので、もう十二月で新規注文はどうかという押詰まってから、急に二軒の呉服屋さんが招かれ、モルガンも日本服、紋附きの羽織ということになり、
「紋は何にしましょう。」
 お雪さんは平安の都の娘だからも一つ古くいって、平城京の奈良という訳でもあるまいが、丸に鹿の紋を染めることにした。鴨川《かもがわ》の水は、来春の晴着《はれぎ》を、種々《いろいろ》と、いろいろの人のを染めるなかに、この新郎新婦の結婚着も染められたのだ。年の瀬と共に川の水はそんなことも流してもいたのだ。
 三十七年一月、横浜の米国領事館で、めでたく、お雪はモルガン夫人となり、アメリカの人となった。
 新聞は、華燭《かしょく》の典を挙げたと報じ、米国《アメリカ》トラスト大王の倅《せがれ》モルガン氏は、その恋花嫁のお雪夫人をつれて、昨日の午前九時五十二分新橋着の列車で横浜から上京したと書いているが、横浜のグランドホテルから東京の帝国ホテルへ移った時のことだ。
 ――花婿は黒山高帽子に毛皮の襟《えり》の付きたる外套《がいとう》を着《ちゃく》して、喜色満面に溢《あふ》れていたるに引きかえ、花嫁はそれと正反対、紺色の吾妻《あずま》コートに白の肩掛、髪も結ばず束《たば》のままの、鬢《びん》のほつれ毛|青褪《あおざ》めた頬を撫で、梨花一枝《りかいっし》雨を帯びたる風情《ふぜい》にて、汽車を出《い》でて、婿君に手を引かれて歩く足さえ捗《はか》どらず、雪駄《せった》ばかりはチャラチャラと勇ましけれど、顔のみは浮き立たぬ体《てい》に見えたり。
と書いている。一等待合室に入って、お供の男女がチヤホヤしても、始終|俯向《うつむ》きがちなので婿どのが頻《しき》りに気を揉《も》んでいたが、帝国ホテルから迎いの馬車がくると新夫婦は同乗して去ったと、胡北《こほく》へ送らるる王昭君《おうしょうくん》のようだとまで形容してあるが、これは幾分誇張かもしれない。

       三

 競馬|季節《シーズン》になった紐育《ニューヨーク》社交界では、晩餐《ばんさん》の集まりでも、劇場ででも、持馬をもったものはいうに及ばず、およそ話題は、その日の勝馬のことで持ちきっていた。
 丁度、そうした時節に、夫の国に行きあわせたお雪は、ある日、競馬見物に連れていってもらった。
 と、モルガンを見つけた若紳士たちは、すぐに彼を取りまいて、肩を叩《たた》いたり笑ったりして、お雪には、慇懃《いんぎん》に握手を求めた。
 お雪は、その人たちから、米国の婦人と同様に、丁寧にはされはしたが、好奇心をもった眼が集まってくるのが面伏《おもぶ》せでもあり、言葉がよく分らないから、何をいわれているのかモルガンの顔の色で悟るよりほかなかった。
 郊外の、みどりを吹く野の風はお雪を楽しませはしたが、競馬に気の立っている、軽快すぎる男女の饒舌《じょうぜつ》は、お雪をすぐに、気くたびれさせてしまった。
 モルガンは友達と打解けて話しあっていたが、
「帰ろうか。」
と、じきに競馬場から出てくれた。
 此処へ来ても、お雪は、眼、眼、眼と、痛い
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