している男女がありとすれば、実にお気の毒なものといわなければならない。わたしは言う、感情、感覚、全精神を打込んだ男女恋愛のどん底は魂の交感であり、命の掴《つか》みあいである。死と生が其処《そこ》にあるばかりで何物をもまじえることの出来ない絶対のものであらねばならぬ。
(けれどこの人は、愛するものにとはいわなかった。惚れた[#「惚れた」に傍点]という普通軽く言いはなされる言葉をつかった。そこに用意があるのかも知れない。)
と思うとまた貞奴の、先刻の褪《さ》めきっていて陶酔しているようなとりなしが目に浮んだ。
では白熱時代の貞奴は?
わたしは急がずに書いてゆこう。四、五年前に京都から来て内幸町の貞奴の家へ草鞋《わらじ》をぬいだ、祇園《ぎおん》のある老妓はこう言ったことがある。
「芝居から帰ると二階へあがって、寝る前に白|葡萄酒《ぶどうしゅ》をあがるのえ、わたしもお相伴《しょうばん》するわ。それから寝るまで話をします。けれど、川上さんのお位牌《いはい》には私が毎日拝んでおいてあげます。お貞さん香華《こうげ》もあげやせん。あの人は強い人で、しまいには川上さんとも仲がようのうて、あっちの室《へや》とこっちの室とに別れて、財産も別だったような――」
この老妓の談話は賤《いや》しかった。香華を手向《たむ》けないゆえ不貞だというようにもきこえたが、あれほど立派に川上の意志をついでいれば、それをこそ川上は悦んでよいのである。仲がよくなくなったといわれた亡夫の意志を、何処《どこ》までも続《つ》いで名声を持してゆこうとするのには、どれ位人知れぬ苦労があったか知れはしない。あの勝気な松井須磨子が、人気のある盛りの身で、一人になれば、猶更《なおさら》自由でありそうなものに思われてさえ、先生|抱月《ほうげつ》氏に別れては、楯《たて》なしでは突進も出来なかったではないか。それをもう衰運であり、他に彼女を引立てて、一座の明星《プリマドンナ》と輝かせ得るほどの対手《あいて》かたをもっていなかった彼女が、貞奴の名を忘れないものにさせるのにどんな気苦労をしたか――老妓は金銭問題のことを言ったが、多年、川上のためには、彼女は全身を投《なげ》出して来た人である。僅少《わずか》の貯蓄《たくわえ》で夫妻が冷たくなろうとは思われる理由がない。老妓の推測は自分だけの心にしかわからなかったのであろう。老妓の目に夫妻の金銭問題と見えたのは、事業と一家の経済との区別をたてたのを悪くとったのではあるまいか? 彼女も女である。ことに気は剛でも身体《からだ》は繊弱《かよわ》い。心の労《つか》れに撓《う》むこともあったであろう。そういうおり夫の果しもない事業慾に――それもありふれた事をきらう大懸《おおがか》りの仕事に、何もかも投じてしまう癖《くせ》のあるのを知って、せめて後顧《こうこ》の憂《うれ》いのないようにと考えたのではなかろうか。それはあの勝気な女性にも、長い間の辛労を、艱難《かんなん》困苦を思出すと、もう欠乏には堪えられそうもないと思うような、彼女の年が用意をさせたのでもあろうか――
川上が亡《なく》なるすこし前の事であった。貞奴夫婦を箱根で見かけた時は、貞奴は浴衣がけで宮の下から塔の沢まで来た。その折など決して彼女が、自分の財袋《たくわえ》だけ重くしている人とは見られなかった。彼女は夫のためにはいかにも真率《しんそつ》で、赤裸々でつくしていたと、わたしは思っている。我儘《わがまま》で自我のつよい芸術家同士は、ときに反感の眼をむいて睨《にら》みあったことがあったかも知れない、あるいは川上の晩年には互いの心に反《そ》りが出て、そういう日が多かったかも知れない。けれどもわたしは貞奴を貞婦だと思う。
気性もの、意地で突っ張ってゆく、何処までも弱い涙を見せまいとする女――そういう人に貞奴も生れついているようだ。そうした生れだちのものは損なのは知れている。女性は気弱く見える方が強靭《きょうじん》だ。しっかりと自分だけを保護して、そして比較的安全に他人の影にかくれて根強く棲息《せいそく》する。強気のものは我に頼んで、力の折れやすいのを量《はか》らずに一気に事を為《な》し遂げようとする。ことに義侠心と同情心の強いものがより多く一本気で向う見ずである。
わたしは自分の気質からおして、何でもかでもそうだと貞奴をこの鋳型《いがた》に嵌《は》めようとするのではないが、彼女も正直な負けずぎらいであったろうと思っている。そしてそういう気質のものが胸算用をしいしい川上を助けたとはどうしても思われない。彼女は強い、それこそ、身を炎にしてしまいそうな自分自身の信仰を傾け尽して、そこに幾分かの好奇心を交えて、夫川上の事業を助けたのであろう。そこにはまた、彼女の生れた血が、伝統的義侠と物好《ものずき》な江戸人の特色を多く含んでいた事や、気負い肌《はだ》の養母に育てられた事や、芝居と小説の架空人物に自らをよそえた、偽りの生活を享楽している中に住んで、不安もなく、むしろ面白おかしく日を送っていた若き日のことであるゆえ、彼女は自分というものの力が、夫にとって、そのまた新らしい事業にとって、どれほど有力なものであるかと知ったときに、全く献身的な、多少冷静に考えるものには、無鉄砲な遊戯と見えるほどな冒険も敢《あえ》てしたのであろう。そうした人が金銭のことから他人がましくなろうはずはない。もしなったとすれば、それは夫妻の内部から破綻《はたん》が、表面にまで及ぼしてきて、物質関係まで他人がましくなったのだと思わなければならない。その折はすでに愛情は冷却して、そのくせ女の方は、あまり高価な、かけがえのない犠牲を払って来た若き日の、あの尊《とう》とかりし我熱情の、徒《いたず》らに消耗された事を思い嘆くあまりの、焦燥から来た我執とみなければなるまい。
けれど、もし仮にそうであったとすれば貞奴の思違いであった。彼女は夫を助けたのであろう。夫のために犠牲として、夫の事業の傀儡《かいらい》となったのであろう。けれどそれは最初のことで、運命は転換した。演劇に新派を建立し、飜訳劇に彼地の風俗人情、思想をいちはやく紹介した川上の事業はとにかく成功した。かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して揶揄《やゆ》するものもあったが、演劇界に新たな一線を劃《かく》すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。艱難《かんなん》に堪え得た彼女の体が生みだした成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具眼者がなくて彼女の今日があったであろうか。
いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている。彼女は一も川上、二も川上と、夫を立てていた。負けぬ気の彼女も川上には心服していた。それはどのような英雄、豪傑にも裏はある。美点も弱点も、妻と夫ほど知り尽すものがあろうか。瓦《かわら》を珠《たま》とおもう愚者でないかぎり、他人には傑《えら》い夫も、妻は物足らぬ底《そこ》を知るものだ。貞奴と川上との間だけがそれらの外とはいえない。それですら貞奴は夫を傑いと思っていた。一面には罵《ののし》りながら、一面には敬していたに相違ない。
罵るとは? 心中に軽蔑《けいべつ》していたことである。彼女にはともすれば拭《ぬぐ》われがたい汚辱を感じることがあるであろう。夫が無暴《むぼう》な渡航を思立って、見も知らぬ外国へ渡り窮乏したおりのことである。また一座十九人に、食物も与えられなかったおりのことである。雪のモスクワで――さまよいあかした亜米利加《アメリカ》で――彼女が身を投捨て人々の急を救ったといわれている。それは彼女にも苦痛な思出であったであろう。それかあらぬか噂《うわさ》には、折々川上が貞奴に辱《はずか》しめられていたこともあるといわれた。
敬さなければならない第一は、いうまでもなく彼女が女優として舞台生活をする第一歩を与え導かれたことである。彼女の夫が彼女を舞台にたたせたのは、他《ほか》の必要から来た――あるいは人気取り策であったかも知れなかった。けれど、その当否はともかくとして、我国の、新女優の先駆者としては、此後《こんご》どれほどの名女優が出ようとも、川上貞奴に先覚者の栄冠はさずけなければなるまい。技芸はどうでも、顔のよしあしは如何《どう》でも、ただそれだけでも残り止《とど》まる名であるのに、何という運のよいことか、貞奴は美貌《びぼう》であり、舞台も忽《おろそ》かでない。彼女は第二の出雲《いずも》のお国であって、お国より世界的の女優となった。
人はあるいは時勢がそうさせたのだというかも知れない。なるほど彼女は幸運な時に出たのである。とはいえ世人の要求よりはずっと早く彼女は生れ、そして思いがけぬ地歩を占めている。松井須磨子の名は先輩の彼女より名高く人気があるように思われたが、とても貞奴の盛時の素晴しかったのには及ばない。悲しくも年を取るという事が何よりも争われない人気の消長であるのと、よい指導者を持ったと、持たないとの懸隔《かけへだて》が、あの粗野な、とても優雅な感情の持主にはなれない、女酋長《おんなしゅうちょう》のような須磨子を劇界の女王、明星《プリマドンナ》とした。貞奴に学問はなくとも、もすこし時代の潮流を見るの明《めい》があったならば、何処までも彼女は中央劇壇の主星《スター》であったであろう。創作力のない彼女は、川上|歿後《ぼつご》も彼れによって纏《まと》めてもらった俳優の資格を保守するに過ぎなかったが、時流はグングンと急激に変っていった。彼女は端の方へ押流され片寄せられてしまって、早くも引退を名にした興行で地方を廻らなければならないようにされてしまった。時代の要求は女優を必要とし、多くの急造女優は消えたり出たりしている。帝劇が十年の月日のうちに候補者を絶えず補充しながらも、律子、嘉久子、浪子の第一期生のうちの幾人かを収穫したにすぎず、あとはまだ未知数になっている。その他の劇団では何もかもたった一人の須磨子を死なせてしまっては、もうあとは語るにも足りぬ有様となってしまった。
そんなであるに、もう貞奴は忘れられたものになっている。彼女はもうお婆さんであるから人気をひかないというような、当事者の思いあまりからばかり、彼女が圏外に跳退《はねの》けられたのではなく、若いおり聡明《そうめい》であった彼女の頭が、すこし頑迷《がんめい》になったためではあるまいか、若いうちは皮相な芸でも突きこんでゆこうとする勇気があった。後にはただ繰返しにすぎないものとなって、すこしの進境もなく、理解のともなわぬ、ただお芝居をするだけになった芸道の堕落のためだと思う。そうした真価の暴露されたのは、川上を失ったためであるといって好いであろう。
川上とて、いまも生きて舞台に立っていたならば、新派創造時代の雑駁《ざっぱく》な面影をとどめていて、むしろ恥多き晩年であったかもしれない。しかし彼れが動かずに、いつまでも自分に固定していようとは思われない。一層彼れは黒幕になって画策したことであろう。彼れはきっと女優全盛期に向っている機運をはずさず、貞奴をもっと高める工夫をこらしたに違いない。
それとても、彼女が願うように――いま福沢さんが後援しているように――表面だけ賑《にぎや》かしの興行政策をとったかも知れない、貞奴自身の望みとあれば……
貞奴に惜しむのは功なり名遂げてという念をおこさずに、何処までも芸術と討死《うちじに》の覚悟のなかった事である。努力が足りなかったと思う。わたしのいう努力とは、勢力運動のことではない。教養の事である。新時代に適するように頭を作る必要であった。そしたらいま彼女はどんな位置にいられたろう。芸術に年齢《とし》のあるはずはない。
二
貞奴は導かれて行きさえすればきっと進んでゆく人である。あるいは、もうあれだけで充分ではないか、随分花も咲かせて来た、後《あと》のことは後のものにまかせて、ちっとは残しておいてやった方がよいと言うものがあるかも知れない。そ
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