いて駈《かけ》付けた門弟たちは、師の病体《からだ》を神戸にうつすと同時に「楠公《なんこう》父子桜井の訣別《けつべつ》」という、川上一門の手馴《てな》れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに叶《かな》い、神戸における楠公様の劇《しばい》である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は弥《いや》がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復《かいふく》も速《すみや》かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方《ゆくえ》定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西《フランス》の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。
それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の姪《めい》の鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川|雪洲《せっしゅう》の妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。
亜米
前へ
次へ
全63ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング