湧《わき》立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、美神《みゅうず》が急に天下《あまくだ》ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の場代《ばだい》のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、桟敷《さじき》や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に昂奮《こうふん》してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな空《むな》しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。
こんな清教徒《ピュリタン》の渇仰《かつごう》を、もろもろの讃詞《さんじ》と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それ
前へ
次へ
全63ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング