っと趣があって懐しみがあった。喜多村が旅行《たびゆ》きの役《やく》のことで、白糸の後の幕の扮装のままでくると、手軽に飲みこみよく話をはこんでいた。
「とても僕たちにはあれだけは分らない。意味の通じないことを二言三言いって、そのままで別れて幾日か立つと舞台で逢うのだ。それがちゃんと具合よくいってるのだから分らない。」
福沢さんが、他《ほか》の人とそんなことを話合っているのを聴き残して、わたしはまた以前《もと》の見物席の方へかえって来た。暫《しばら》くするとドカドカと二、三人の人が、入りのすくない土間《どま》の、私のすぐ後へ来た様子だったが、その折は貞奴の出場《でば》になっていた。
「ねえ、僕が川上の世話を焼きすぎるといって心配したり、かれこれいうものがあるけれど、男は女に惚《ほ》れているに限ると思うのです。」
そういう特種《とくしゅ》の社会哲学を、誰《たれ》が誰に語っているのかと思えば、聴手《ききて》には後《うしろ》に耳のないわたしへで、語りかけるのは福沢氏だった。わたしは微笑《わらい》を含《か》みながら真面目《まじめ》になって、そのくせ後へはむきもせずに耳をすましていた。
「これが男に惚れこんでごらんなさい。なかなか大変なことになる。印形《いんぎょう》も要《い》る。名誉もかけなければならない。万が一のときは、俺《おれ》は見そこなったのだなんていう事は逃口上《にげこうじょう》にしかならない。一たん惚れたら全部でなければならないから――其処《そこ》へゆくと女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらいなものだから。」
わたしはなるほどと思った。事業家の恋愛は妙な原則があるものだと感じた。しかし私はまるであべこべなことを感じたのであった。男同士が人物を見込んでの関係は――単に商才や手腕に惚れ込んだのは、どん底にぶつかったところが――自今《いま》の世相から見て、生命《いのち》をかけたいわゆる男の、武士道的な誓約のある事を、寡聞《かぶん》にして知らないから――物質と社会上の位置とを失えば、あるいは低めれば済《す》むのである。男女の愛情はそうはゆかない。譬《たと》い表面は何事もなかったおりは、あるいはダイヤモンド、おつきあい、着物、家ぐらいですむかも知れないが、それは悲しい真に貧乏《プーア》な恋愛で、そんな水準《レベル》におかれた恋愛で満足している男女がありとすれば、実にお気の毒なものといわなければならない。わたしは言う、感情、感覚、全精神を打込んだ男女恋愛のどん底は魂の交感であり、命の掴《つか》みあいである。死と生が其処《そこ》にあるばかりで何物をもまじえることの出来ない絶対のものであらねばならぬ。
(けれどこの人は、愛するものにとはいわなかった。惚れた[#「惚れた」に傍点]という普通軽く言いはなされる言葉をつかった。そこに用意があるのかも知れない。)
と思うとまた貞奴の、先刻の褪《さ》めきっていて陶酔しているようなとりなしが目に浮んだ。
では白熱時代の貞奴は?
わたしは急がずに書いてゆこう。四、五年前に京都から来て内幸町の貞奴の家へ草鞋《わらじ》をぬいだ、祇園《ぎおん》のある老妓はこう言ったことがある。
「芝居から帰ると二階へあがって、寝る前に白|葡萄酒《ぶどうしゅ》をあがるのえ、わたしもお相伴《しょうばん》するわ。それから寝るまで話をします。けれど、川上さんのお位牌《いはい》には私が毎日拝んでおいてあげます。お貞さん香華《こうげ》もあげやせん。あの人は強い人で、しまいには川上さんとも仲がようのうて、あっちの室《へや》とこっちの室とに別れて、財産も別だったような――」
この老妓の談話は賤《いや》しかった。香華を手向《たむ》けないゆえ不貞だというようにもきこえたが、あれほど立派に川上の意志をついでいれば、それをこそ川上は悦んでよいのである。仲がよくなくなったといわれた亡夫の意志を、何処《どこ》までも続《つ》いで名声を持してゆこうとするのには、どれ位人知れぬ苦労があったか知れはしない。あの勝気な松井須磨子が、人気のある盛りの身で、一人になれば、猶更《なおさら》自由でありそうなものに思われてさえ、先生|抱月《ほうげつ》氏に別れては、楯《たて》なしでは突進も出来なかったではないか。それをもう衰運であり、他に彼女を引立てて、一座の明星《プリマドンナ》と輝かせ得るほどの対手《あいて》かたをもっていなかった彼女が、貞奴の名を忘れないものにさせるのにどんな気苦労をしたか――老妓は金銭問題のことを言ったが、多年、川上のためには、彼女は全身を投《なげ》出して来た人である。僅少《わずか》の貯蓄《たくわえ》で夫妻が冷たくなろうとは思われる理由がない。老妓の推測は自分だけの心にしかわからなかったのであろう。老妓の目
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