たしはそのほかに貞奴の外出姿を幾度も見かけた。多くは黒紋附きの羽織をきているが、彼女はやっぱり異国的《エキゾチック》のおつくりの方が遥《はる》かに美しかった。ある時|国府津《こうず》行の一等車に乗ったおりは純白なショールを深々と豊かにかけていたのが顔を引立《ひきたて》て見せた。内幸町《うちさいわいちょう》で見かけた時は腕車《くるま》の膝《ひざ》かけの上まで、長い緑色のを垂《た》らしてかけていたが、それも大層落附いていた。
二度目に新富座《しんとみざ》へ招かれていった時に、俳優としてあけっぱなしの彼女に、はじめて逢ったのであった。そのおりは、新派の喜多村《きたむら》と一座をしていた。喜多村は泉鏡花氏作「滝《たき》の白糸《しらいと》」の、白糸という水芸《みずげい》の太夫《たゆう》になっていた。貞奴はその妹分の優しい、初々《ういうい》しい大丸髷《おおまるまげ》の若いお嫁さんの役で、可憐《かれん》な、本当に素《す》の貞奴の、廿代《はたちだい》を思わせる面差《おもざ》しをしていた。そのおりの中幕《なかまく》に、喜多村が新しい演出ぶりを試みた、たしか『白樺《しらかば》』掲載の、武者小路実篤《むしゃのこうじさねあつ》氏の一幕ものであったかと思う。殿様が恋慕《れんぼ》していた腰元《こしもと》が不義をして、対手《あいて》の若侍と並んで刑に処せられようとする三角恋愛に、悪びれずにお手打ちになろうとする女と、助かりたさと恐怖に、目の眩《くら》んでいる若侍と、一種独特な人世観を持った殿様とが登場する狂言で、殿様が喜多村|緑郎《ろくろう》、若侍が花柳章太郎《はなやぎしょうたろう》、貞奴が腰元であった。腰元は振袖《ふりそで》の白無垢《しろむく》の裾《すそ》をひいて、水浅黄《みずあさぎ》ちりめんの扱帯《しごき》を前にたらして、縄にかかって、島田の鬘《かつら》を重そうに首を垂れていた。しかしその腰元の歩みぶりや、すべての挙止が、あまりにきかぬ気の貞奴まるだしであったのが物足りなかった。何故オフィリヤやデスデモナやトスカや、悄々《しおしお》と敵将の前へ身を投《なげ》出すヴァンナの、あの幽雅なものごしと可憐さを、自分の生れた国の女性に現せないのだろう、異国の女性に扮するときはあれほど自信のある演出するのにと思った。その幕がおわってから楽屋へ訪れたのであった。
卓にお膳立《ぜんだて》が出来ていて、空席になっているところがわたしのために設けられた場所であった。貞奴は鏡台をうしろにして中央にいた。すぐそのとなりに福沢さんがいた。御馳走《ごちそう》の充分なのに干魚《ひもの》がなければ食べられないといって次の間で焼かせたりした。わたしは(ああこれだな、時折舞台が御殿のような場で楽屋の方から干魚《ひもの》の匂《にお》いがして来て、現実暴露というほどでもないが興味をさまさせるのは――)などと思っていた。福沢さんがお茶づけが食べたいというと、女茶碗《おんなぢゃわん》のかわいいのへ盛って、象牙《ぞうげ》の箸《はし》をそえてもたせた。新富座の楽屋うらは河岸《かし》の方へかけて意気な住居《すまい》が多いので物売りの声がよくきこえた。すると貞奴は、
「早くあの豌豆《えんどう》を買って頂《ちょう》だい、塩|煎《いり》よ。」
と注文した。福沢さんがあんなものをといったが、あたしは大好きなのだからと買わせて食べながら「これは柔らかいからおいしくない」といって笑った。
そうした様子がから駄々《だだ》っ子で、あの西洋にまで貞奴の名を轟《とどろ》かして来た人とは思われないまで他《た》あいがなかった。飯事《ままごと》のように暮している新夫婦か、まだ夢のような恋をたのしんでいる情人同士のようであった。貞奴の声は柔かくあまく響いていた。
「昨日《きのう》はね、痩《やせ》っぽちって怒鳴られたのですよ。この間はね、福桃《ふくもも》さん、あんなに痩せたよ――ですって……」
彼女は煙草《タバコ》をくゆらしながらおかしそうに笑った。そう言われないでも気がついていたが、彼女の体はほんとに痛々しいほど痩《や》つれていた。肩の骨もあらわならば、手足なぞはほんとに細かった。その割に顔は痩せが目にたたない、ふくみ綿をするとすっかり昔の面影になる。
(ああ、あの眼が千両なのだ)
あの眼が光彩をはなつうちは楚々《そそ》たる佳人になって永久に彼女は若いと眺められた。福沢粋士にせよこの人にもせよ、見えすいた、そんな遊戯気分を繰返すのは、醒《さ》めた心には随分さびしいであろうが、それを嬉《うれ》しそうにしている貞奴をわたしは貞淑なものだと思った。彼女は荒い柄のお召《めし》のドテラに浴衣《ゆかた》を重ね、博多《はかた》の男帯をくるくると巻きつけ、髪は楽屋|銀杏《いちょう》にひっつめていた。そうしたおりの顔は夫人姿の時よりもず
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